選帝侯フリードリヒ3世に仕えて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 16:53 UTC 版)
「ハンス・アルブレヒト・フォン・バーフース」の記事における「選帝侯フリードリヒ3世に仕えて」の解説
1688年4月29日、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムは没した。その翌日、バーフースは後継者である選帝侯フリードリヒ3世によって中将に任ぜられる。9月19日に「大選帝侯」の国葬が執り行われた時、バーフースはベルリンに展開した部隊を指揮した。12月11日には宮中軍事顧問官に任命される。これによって、後には位人臣を極めることとなる政治家としての道の基礎が築かれた。しかし、その前にはいくつかの戦役が迫っていた。 1689年初頭、バーフースはライン川におり、2月にはデン・ハーグでヴァルデック伯ゲオルク・フリードリヒやネーデルラントの諸将と新たな対仏遠征に備えていた。続いてネーデルラント軍はアルペン(英語版)でシューニンク、アレクサンダー・フォン・シュペーン(英語版)及びバーフースの諸将の下、ライン川に結集したブランデンブルク軍に合流した。上級指揮権を担ったのは、ブランデンブルク選帝侯である。3月13日、バーフースはイゥアディンゲン(英語版)で戦闘の勝利に貢献した(ドイツ語版)。続いてノイス、ラインベルク(英語版)、ツォンスとカイザーヴェルト(英語版)を占領した後、軍団はボンへ向かう。6月22日、バーフースはライン川右岸のボイエル砦(ドイツ語版)の占領を命じられ、部隊を率いてボンの対岸に到着した。偶然によって二日後、砲撃中に砲弾がこの砦(英語版)の弾薬庫に直撃し、防衛施設群に突破口を開いた。続く突撃によって、守備隊の残りは制圧された。バーフースは攻略した砦を拡張し、砲台を設置し、ボンを砲撃させる。ブランデンブルク軍は同市をライン川左岸から包囲した。7月11日、ヴェッセリンク(英語版)の陣営に到着した選帝侯は、封鎖と本格的な攻囲戦のどちらによってボンのフランス軍司令官、アスフェルト男爵アレクスィ・ビダル(フランス語版)に降伏を強いるか迷っていたため、指揮下の諸将に書面で意見を述べるよう求めた。バーフースは本格的な攻囲に賛成し、8月15日の書簡で「さらに多くの歩兵、砲兵、弾薬、攻城兵器、粗朶、資金と農民数千名」を要求している。
※この「選帝侯フリードリヒ3世に仕えて」の解説は、「ハンス・アルブレヒト・フォン・バーフース」の解説の一部です。
「選帝侯フリードリヒ3世に仕えて」を含む「ハンス・アルブレヒト・フォン・バーフース」の記事については、「ハンス・アルブレヒト・フォン・バーフース」の概要を参照ください。
- 選帝侯フリードリヒ3世に仕えてのページへのリンク