ツヴァイブリュッケン公・選帝侯時代
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「マクシミリアン1世 (バイエルン王)」の記事における「ツヴァイブリュッケン公・選帝侯時代」の解説
1795年、マクシミリアン・ヨーゼフは子供のない兄カール・アウグストの死去により、兄が継いでいたツヴァイブリュッケン公位を継いだが、所領はフランスに占領されていた。1799年にはカール・テオドールの後継者としてバイエルン選帝侯に即位した。カール・テオドールは即位時の経緯(バイエルン継承戦争を招いた)もあってバイエルンでは不人気であり、彼と対立していたツヴァイブリュッケン公家のマクシミリアン・ヨーゼフの即位は領民から歓迎された。 フランスとフランス啓蒙思想に共感を持っていたマクシミリアン・ヨーゼフは、兄の代から官僚として仕えていたモンジュラ伯を重用し、様々な国政の改革を行なった。農業と商業の振興、法の改善や新たな法典の制定、旧来の特権を無視した課税の均等化などである。一方で修道院の多くが弾圧され、その収入は教育などの目的に使用された。 マクシミリアン・ヨーゼフはドイツ民族主義の高まりには終始共感を抱かず、その外交政策はもっぱらヴィッテルスバッハ家あるいはバイエルン国家の利益のみを優先していた。1813年まで、バイエルンはナポレオン・ボナパルトにとって最も忠実なドイツの同盟国だった。この関係は、マクシミリアン・ヨーゼフの長女アウグステ・アマーリアとナポレオンの養子ウジェーヌ・ド・ボアルネとの結婚で強化された。1801年のリュネヴィルの和約ではライン・プファルツ地方、ツヴァイブリュッケン公国、ユーリヒ公国などを正式に放棄したものの、1805年のプレスブルク条約によって、バイエルンはシュヴァーベン地方とフランケン地方を獲得した上で王国に昇格した。マクシミリアン・ヨーゼフは1806年1月1日にミュンヘンでバイエルン王に即位した。
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