進駐後の文化交流・治安問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 07:47 UTC 版)
「キャンプ・ドレイク」の記事における「進駐後の文化交流・治安問題」の解説
進駐後は主力部隊である第1騎兵師団司令部が置かれる。製パン工場、レクリエーション施設、下士官クラブや将校クラブ、映画館なども建設され、桃手地区には家族向け居住施設なども建てられた。基地外周辺にも米兵相手のジャズ・バーやビヤホール、アメリカン・リージョンクラブ(現:朝霞市 栄町。朝霞第4中学校前)と呼ばれたキャバレーなどがあり、アメリカ独立記念日にあたる7月4日には花火が打ち上げられるなど、夜間は活気に満ちた地域であった。米兵向けの写真店や「スベーニアショップ」と呼ばれる土産物店などもあった。下士官クラブでは渡辺貞夫、フランキー堺、フランク永井、ペギー葉山、江利チエミ、雪村いずみ、ダーク・ダックスなどがステージで演奏している。このことから日本のジャズ普及の地とも言われている。 基地内の日本人作業者が待遇改善を求めてストライキなどを起こしてMPから暴行を受けたり、米兵による暴力事件、交通事故、発砲事件、麻薬販売など、現在の在日米軍が集中している沖縄で発生している諸問題がここでも発生していた。 RAA(Recreation and Amusement Association 特殊慰安施設協会)による米兵相手の「特別女子従業員」募集が行なわれた。その仕事内容が売春とは知らずに応募した女性が多かった。これにまつわる混血児問題なども発生している。その後、近隣地区である成増(東京都板橋区)にも「成増慰安所」が作られている。最盛期には、東上線沿線である池袋や有楽町などから「パンパン」と呼ばれた売春婦が流れ込み、その数は2,000人にも達した。性病の蔓延と風紀の乱れを防止するため、1950年(昭和25年)9月8日には占領軍が売春取締りに乗り出し、朝霞町において「売いん等取締り条例」が制定され、娼婦は朝霞を追われて大和町(現:和光市)に逃げ込むが、大和町においても9月14日に「売いん等取締り条例」が制定された。9月25日の夜には朝霞、大和町署共同での一斉取締り「狩り込み」が行われている。 この頃、近隣の住民は基地内での労務を課せられた。内容は草刈りなどで、まるで奴隷扱いだったという。一方で、売春婦に部屋を貸して収入源とする住民もいた。 1955年(昭和30年)8月には核弾頭発射可能なオネストジョンロケット砲が南キャンプに配備され、8月22日基地ペニシリン広場において記者、政府、県関係者などを前に公開され物議を醸した。翌年5月20日には一般公開も行なわれている。
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