逮捕・死去とは? わかりやすく解説

逮捕・死去

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 15:02 UTC 版)

エルンスト・テールマン」の記事における「逮捕・死去」の解説

1933年1月30日ナチ党党首アドルフ・ヒトラーパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領から首相に任命された。2月1日国会解散され選挙戦突入したが、2月4日には野党行動制限するドイツ民族保護のための大統領令」が発令され2月初めに共産党機関紙集会禁止、党地方局への捜査押収、党職員逮捕などで全く防衛的な立場追いやられた。 さらに選挙期間中の2月27日国会議事堂放火事件発生しオランダ共産党員マリヌス・ファン・デア・ルッベ犯人として逮捕されると、プロイセン内相ヘルマン・ゲーリング国際共産主義運動全体陰謀見做し2月28日制定され事実上戒厳令ドイツ国民と国家を保護するための大統領令に基づき共産党員4000人を逮捕共産党機能はほぼ完全に停止した追いつめられ共産党は、長年ライバル関係にある社民党対しファシスト攻撃対抗する行動統一戦線」を求めたが、共産党依然としてコミンテルン方針である「社会ファシズム論」縛り受けていたので共闘求めながら罵倒止めない矛盾した態度取り続け結果社民党から拒絶された。3月5日選挙の結果共産党81議席獲得したが、直後3月9日共産党議員議員資格議席ごと抹消されたため、総議席減少してナチ党単独過半数獲得した。 テールマン自身3月3日ベルリン自宅逮捕されている。1933年から1937年にかけてモアビット刑務所ドイツ語版)に拘留された。容赦のない尋問を受け、尻や顔や背中カバの皮の鞭で打たれ、歯も4本折られた。1935年には刑事裁判待ち拘留から保護拘禁切り替えられた。1937年から1943年にかけてはハノーヴァー裁判所刑務所ドイツ語版)に収監され、ついで1943年から1944年にかけてはバウツェン刑務所ドイツ語版)に収監された。 あれほどスターリン忠誠尽くしてきたにもかかわらず1939年8月独ソ不可侵条約締結されるスターリンから見捨てられた。ソ連共産党1939年国際青少年に際して「テールマン同志歳」の予定になっていたスローガンナチス政権配慮して除去し急遽スターリン同志指導によるソビエト連邦偉大な外交政策歳」に変更した。またテールマンの妻ローザ独ソ不可侵条約締結後ソ連大使館に夫の釈放のための仲裁懇願しているが、スターリンからは無視された。 1944年8月にはブーヘンヴァルト強制収容所移送の上親衛隊 (SS) 隊員により銃殺された。ナチスは元社民党のルドルフ・ブライトシャイト(ドイツ語版と共に連合軍ブーヘンヴァルト空爆により死亡した虚偽発表をした。なお妻ローザと娘イルマは、テールマン殺害先立ち逮捕されラーフェンスブリュック強制収容所及びその付属収容所送られたが、二人とも生きて終戦迎えることができた。

※この「逮捕・死去」の解説は、「エルンスト・テールマン」の解説の一部です。
「逮捕・死去」を含む「エルンスト・テールマン」の記事については、「エルンスト・テールマン」の概要を参照ください。

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