連邦政府の部族認定解除
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 19:20 UTC 版)
「ネイティブ・アメリカン」の記事における「連邦政府の部族認定解除」の解説
これまで、条約交渉の窓口であるはずのBIA(インディアン管理局)は条約を無視し、ドーズ法を盾に保留地を削減し、インディアンにアメリカ文化を受容させるべく、インディアン寄宿学校などといった施政で強制的に同化政策を押し進めてきた。1887年に1億3800万エーカーあったインディアンの保留地(Reservation)は、次々にBIAによって「保留(Reserve)を解消」されて、現在では総計5500万エーカーまで削減されてしまった。また、20世紀初頭から連邦政府は「血が薄まった」ことを理由に多数の部族を絶滅認定し、条約交渉を打ち切る「絶滅政策」を採ってきた。 こうして1954年から1966年までの間に、全米で100以上の部族が「絶滅部族」として「解散」させられた。連邦政府・BIAがあるインディアン部族を「絶滅指定」すると、おもに次のような事態となる。 1)保留地の「保留」が解消され、部族民は部族固有の土地に対する権利をすべて没収される。部族の土地に密着して農業や事業を行っていた部族民は、一夜にして根なし草となり、都市部へ下働きに出ざるを得なくなる。 2)BIAの義務である、部族に対する年金支給が打ち切られる。インディアンに多く見られる母子家庭はただちに路頭に迷う。 3)BIAの義務である、部族民に対する健康保健や、文化活動への援助などの福利厚生サービスがすべて打ち切られる。部族の伝統を教える「部族学校」は教育費援助を打ち切られ、土地の没収とともに閉鎖される。 この部族認定解除の方針に対し、1960年代からレッド・パワーとともに散り散りになった部族員を再結集して、連邦に部族の再認定を迫る動きが盛んになった。ニクソン政権下でひとまずこの部族解消方針は打ち切られ、メノミニー族、ピクォート族が復活した。しかし、ニクソン失脚後の議会は再び「絶滅政策」を打ち出し、これ以外の部族は現在も、アメリカ内務省を相手に頻繁な訴訟を伴う再認定交渉を強いられている。 この再認定要求の流れとして、混血度の高い部族ほど、「何分の一までの混血なら部族員とみなす」と部族独自の混血度の規定を設け、規定を緩めて再結集しようとする傾向があり、ふた桁以上の混血度でも正部族員と認める部族もある。(この規定でいけば、16分の1チェロキー族の血を引いているビル・クリントンも正式なインディアンということになる)年々この要求は広がりつつあり、連邦側も対応に苦慮している。とはいえ、混血と同化を押し付けてきたのは連邦政府のほうである。 20世紀には「インディアンのバスティーユ監獄」と表現されたBIAであるが、2000年に副局長に就任したポーニー族のケビン・ガバー(Kevin Gover)局長が「同化政策」に対する「歴史的な謝罪」を行い、その施政は軟化しつつある。その一方、2000年7月、ワシントン州の共和党は、部族政府を廃止する決議を採択した。2004年現在、未だにインディアンの所有地から石炭やウランが盗まれているという事態が申し立てられている。アメリカ行政管理予算庁による1972年の研究では、連邦政府による1000項目の対インディアン支援プログラムのうち、部族に役立っているものはわずか78項目だけであるとの報告がなされている。
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