連邦政府への進出
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「ジェイムズ・コクラン・ドビン (1世)」の記事における「連邦政府への進出」の解説
1852年、ドビンは民主党全国大会の代表となった。ドビンは民主党の大統領候補選出にあたって膠着状態となっていた状況を打破する決定的なスピーチを行った。その結果、民主党の大統領候補にはダークホースであったフランクリン・ピアーズが選出された。1852年の大統領選挙で勝利したピアーズは、ドビンに論功行賞として海軍長官のポストを与えた。 ピアーズは、ドビンが南部の連邦主義者であり、1850年の妥協を支持していたと思い込んでいた。だが実際には、ドビンは1850年の妥協には反対していた。1850年の妥協に賛成した民主党員の多くは、ドビンが陸軍長官ジェファーソン・デイヴィスとともにピアーズ政権内において窓際に追いやられているものと感じていた。 ドビンはピアーズの任期満了となる1857年まで海軍長官を務めた。海軍長官としてドビンは、強い海軍こそが平和を保障するものであると固く信じ、合衆国海軍の全面的な改革を実施した。ドビンの在任中、合衆国海軍では全世界でも最高クラスの強力な艦船が18隻も建造された。 1853年11月、ドビンはピアーズ大統領の要請に応じ、大西洋と太平洋をつなぐパナマ運河を開通させるため、アイザック・ストレイン中尉にパナマ地峡の調査を命じた。翌1854年1月に合衆国海軍のサアン号がパナマのダリエン地峡に上陸したが、地峡横断探検隊は道に迷い、また飢えと病気により探検隊の大部分が死亡した。 1854年3月、ドビンの支援の下、海軍提督マシュー・ペリーが当時鎖国状態にあった日本を開国をさせることに成功した。
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