速度向上の手段
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 08:40 UTC 版)
「燕」は到達時間短縮のため、それ以前には例のなかった様々な高速化策を導入した。 機関車の交換省略 1930年(昭和5年)10月、「燕」の運転を開始した当時の東海道本線は、東京駅 - 国府津駅間が電化されており、従来は特急・急行列車でも電気機関車と蒸気機関車を国府津で交換していた。しかし、「燕」ではその交換時間を切り詰めるため、C51形蒸気機関車による東京駅 - 名古屋駅間通し牽引とした(名古屋駅以西は梅小路機関庫配置のC51形が牽引)。国府津駅 - 名古屋駅間ではすでに「富士」・「櫻」には強力なC53形が投入されていたが、同形式はクランク位置によって起動不能になる場合があり、過密ダイヤの東京近郊区間での遅延を避けるため、在来形で信頼性の高いC51形が選ばれた。1934年(昭和9年)12月の丹那トンネル開通後は、東京駅 - 沼津駅間は電気機関車牽引、沼津以西はC53形蒸気機関車の牽引とし、沼津で機関車を交換するようになった。 給水停車の省略 蒸気機関車はボイラー用水の消費量が多く、適当な区間ごとに停車して水を補給する必要があったが、「燕」はC51形に専用の水槽車(のちの水運車ミキ20形)を増結することで、この給水停車もなくした。しかし水槽車は重量がかさみ、高速化や輸送力増強の足かせとなることから、「燕」は1932年(昭和7年)3月以降静岡駅に給水を兼ねて停車するようになった。これに伴い水槽車の連結は中止され、牽引力の余裕を得て三等車1両を増結している。この給水については、鉄道省も相当に苦心を重ねたようで、運行計画の中には「線路沿いに給水タンクをずらりと並べて、各々に線路に向けて放水するパイプを取り付け、通過列車に走行しながら給水する」等の奇抜なものまであったが実用化はされなかった。 補助機関車(補機)の連結・解放迅速化 運転開始当時の東海道本線は現在の御殿場線経由であり、25 ‰の勾配を有する急峻な山越え区間があった。このため、下り列車は国府津から、上り列車は沼津から、御殿場駅まで後部補助機関車を連結する必要があった。「燕」はこの連結作業時間をわずか30秒に切り詰め、なおかつ補機の切り離しは、御殿場駅付近通過中に走りながら行った。この結果運転開始当初の「燕」は、下りは国府津から名古屋まで、上りは名古屋から沼津までノンストップとなった。この補機連結は、1934年(昭和9年)12月、丹那トンネル開通によるルート変更によって解消されるまで続いた。一方、大垣駅 - 関ヶ原駅間にも同様に25 ‰の急勾配が存在していた。この区間は片勾配で、下り列車に限り大垣駅から補機を連結する必要があったが、下り「燕」はここでも国府津駅・沼津駅と同様の30秒停車で早業連結し、登坂し終えた柏原駅付近で走行中に切り離した。 運転中の乗務員交代 ノンストップ区間では、乗務員交代の停車さえも省略された。交替の機関士と機関助士は先頭の客車内で待機しており、走行中に水槽車外側の歩み板と炭水車内に改造で設けた通路(車両限界の都合もあり、屈んで通過できるサイズ)を経由して、前任の機関士・機関助士と交替したという。事故は無かったというが、さすがにこの交替は危険きわまりなく、1932年(昭和7年)3月以降は静岡での給水停車に合わせて乗務員交代も行うようになった。
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