追加法と反乱
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アト・アディシオナル(英語版)(「追加法」)と呼ばれる憲法改正は1834年8月12日に発布された。改正には国家評議会の廃止、行政上と政治上の地方分権による連邦制の採用などが盛り込まれた。しかし、地方分権は地方の不満を低減させるどころかますます燃え上がり、北部と南部では内戦が勃発した。地方分権により、各州を支配する政党は選挙と政治制度をも支配するため、党派紛争が熾烈を極めた。選挙に敗れた党派は実力行使に出て、武力で権力を奪取しようとした。しかし、反乱を起こした党派でも正当性を主張するために皇帝への支持を表明した(すなわち、皇帝に対し反乱したのではないと主張した)。カバナジェン(英語版)(1835年 - 1840年)、サビナダ(英語版)(1837年 - 1838年)、バライアダ(英語版)(1838年 - 1841年)の反乱軍はいずれも同様の主張をした。一部の州が分離を試みて、ペドロ2世が成年するまで共和国として独立しようとしたときも同様にペドロ2世支持を主張した。ファラーポス戦争(英語版)は例外であり、この戦争もまたリオグランデ・ド・スル州の党派紛争が引き金になっていたが、アルゼンチンの独裁者フアン・マヌエル・デ・ロサスの支援を得たため、すぐに分離主義者の反乱に発展した。しかし、数多くの反乱のうち最大規模であるファラーポス戦争においても、大都市を含む住民の大半が帝国を支持した。 1835年4月、新しい摂政を選出するための選挙が行われた。結果はどの候補も多数票を得ることができずに終わったが、当選者は現地派の指導者フェイジョで、彼は10月12日に就任した。そして、ペドロ1世が1834年9月24日に急死したとの報せが届くと、復帰派は国政での影響力を失った。復帰派の多くは経済、社会、思想において立場の近いコインブラ党に加入した。彼らはいずれも王党派であり、フェイジョに反対した。コインブラ党はペドロ1世の復帰に強く反対したが、ペドロ1世が死去したことで両派の差が縮まり、結果的には両派は接近した。1834年10月にカルネイロ・レオン(コインブラ党)が復帰派との交渉を開始、フェイジョ以外の摂政候補を支持するようになると、後の保守党となる党派のひな型が形成した。 フェイジョは就任すると、議会への責任を感じない独裁者としてふるまうようになった。1837年になると、フェイジョ政府は信用も支持も失った。北部と南部の蜂起は未だに鎮圧されておらず、ブラジルの課題は全く対処されなかった。活力を取り戻したコインブラ党はフェイジョの不正行為を追求して彼を追い落とし、フェイジョは1837年8月に辞任した。後任はコインブラ党のアラウジョ・リマであり、彼は自党の党員を軍部の首脳部に任命した。コインブラ党は「権力を掌握した。クーデターによるのではなく、君主の寵愛に基づくものでもなく、議会の少数派をねじ伏せてなしたことである」。 これにより中道派は解体した。また、1837年5月には中道派の結束を維持していたエヴァリスト・ダ・ヴェイガ・エ・バロス(英語版)が死去した。コインブラ党はブラジルの秩序回復を目指す政策をとった。1834年の追加法に基づく新法が採択され、地方警察と裁判所の支配権を中央政府に戻した。新法により中央政府の反乱対処力が大きく強化されたが、1834年の憲法改正で定められた地方の行政的と政治的自治は変更されなかった。コーヒーの輸出は1820年代に4倍まで増え、1829年から1835年までの間でさらに倍に増えており、コインブラ党はリオデジャネイロ市のちょうど北にあるパライバ盆地(英語版)のコーヒー業との関係を強化することで信用を増した。経済の好況により政府の収入が増え、借款を得る能力が強化されたことで情勢が改善した。 フェイジョ率いる現地派はほかの少数野党と連合した。しかし、これらの野党は寄せ集めであり、思想上の共通点はなかった。「急進共和派、中道改革派、自由王党派、元復帰派などを含む実利的な同盟であった」。この派閥は1840年代の第二「自由党」の前身になった。政敵が永遠に権力の座に留まり続けることを恐れた自由党はペドロ2世を成人とする年齢の引き下げを呼び掛けた。彼らは摂政を追い払って、若い皇帝を言いなりにすることで影響力を取り戻そうとした。「(政治の)経験がない皇帝は自分を権力の座につかせた人物に操られる可能性がある」。そのため、彼らはアウレリアノ・デ・ソウザ・エ・オリヴェイラ・コウチーニョ(英語版)(後のセペチバ子爵、フェイジョの1832年7月30日クーデターを支持していた)率いる「宮廷派」を支持した。宮廷派はペドロ2世に近い政治家や高級使用人の間で結成された派閥である。
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