軍人・外交官
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オスマン帝国のピルレペ(現マケドニア共和国のプリレプ)生まれ。1898年、陸軍士官学校に入学。1904年、サロニカの第3軍に参謀将校として配属される。そこで「統一と進歩委員会」に加盟。1909年、フランス大使館付武官。1911年の伊土戦争に従軍。1912年、立憲議会議員に当選。1913年にブルガリア公使となる。その当時のブルガリア駐在武官がのちの大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクであり、知遇を得た。1917年に立憲議会議員に当選しトルコに戻る。 第一次世界大戦敗北の混乱の中、暫定内閣で内相を務めたりケマルと共に新聞を発行するなどしたが、1919年1月に他の高官たちと共に拘束され、1921年までイギリス軍によりマルタに抑留される。釈放されトルコに戻った後はトルコ大国民議会に参加。独立戦争中の1922年に内相に就任。1923年8月14日から同年10月27日まで大国民議会代表(首相に相当)を務める。同職退任数日後にトルコ大国民議会議長に選出される。初代大統領に就任したケマルの後任であった。
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軍人・外交官
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オーストリア・ハンガリー軍に入隊後第一次世界大戦に従軍、戦時中に大佐に昇進する。終戦後は一時ユーゴスラビア軍に入隊した後、1919年にホルティ・ミクローシュの率いるハンガリー国民軍に参加し、共産主義者に対する白色テロに従事した。 ホルティ政権下のハンガリー軍では少将に昇進し防諜部門を担当した後、1925年に駐ベルリン駐在武官に任命され、ドイツの軍部と政界で交友を広めた。また、1927年には姓名をハンガリー式の「ストーヤイ」に改めた。1933年から1935年まで国防省で勤務した後、同年に中将に昇進し駐ドイツ大使に任命され1942年まで務めた。大使在任中はナチス最高指導部のアドルフ・ヒトラー、ヨーゼフ・ゲッベルスと親交を深め、ドイツの政策を支持するようにハンガリー本国に働き掛けた。 1944年3月、ドイツ軍はマルガレーテI作戦によってハンガリーを占領し、連合国との講和を模索していたカーロイ・ミクローシュ(英語版)首相を解任し、ホルティを軟禁した。ドイツ特使のエトムント・フェーゼンマイヤーは、ドイツに協力的なイムレーディ・ベーラを首相に任命するようにホルティに提案したが、ホルティは提案を拒否し、代わりにストーヤイを推薦した。ホルティはストーヤイが親独的であることは知っていたが、大蔵官僚のイムレーディよりも、軍人であるストーヤイの方がドイツの圧力に抵抗出来ると考えていた。フェーゼンマイヤーも親独派のストーヤイの首相就任に同意したため、3月22日にストーヤイは首相兼外務大臣に就任した。
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