軍人・技術者・政治家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 08:05 UTC 版)
「アンリ・デュフール」の記事における「軍人・技術者・政治家」の解説
1817年に彼はジュネーヴへと戻り、新しく創設されたスイス国軍で大尉の地位に就くとともに、ジュネーヴ軍の指揮官およびジュネーヴ大学の数学教官の地位に就いた。ジュネーヴにおいて彼は都市計画家及び地図製作者として実績を積み重ねた。正式には1828年まで任命されなかったものの、1817年からすでにジュネーヴの都市計画を任され、さまざまな事業を行っている。1822年には世界初のワイヤーケーブルのつり橋であるセント・アントワーヌ橋を設計し架橋した。レマン湖への蒸気船の導入やガス灯の設置も行っている。1832年にはスイス国内の正確な地形図を作製する作業を命ぜられ、1838年にはスイス連邦地理院の総裁の地位に就き、1865年までその座にあった。地図は1864年の12月に完成し、デュフール地図と呼ばれた。軍人としては1819年にトゥーンに創立された士官学校の教官となり、1831年まで同職にあった。その間、1827年には大佐まで昇進している。1829年にはルイ・ナポレオンが士官候補生として入学してきた。デュフールとナポレオンとの関係は良く、ルイがナポレオン3世としてフランスの帝位に就いた後も親交は続いた。また、1819年には彼はジュネーヴ市議会の議員となり、1848年から1851年までと1854年から1857年までは自由主義派のジュネーヴ州代表としてスイス下院(国民院)の議員となった。1863年から1866年まではジュネーヴ州代表の上院(全州議会)議員となった。
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