起業の経緯
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岐阜県の東部、現在の中津川市域においては、1906年(明治39年)4月まず恵那郡中津町に中津川電力社(後の中津電気)が開業して電気事業の歴史が始まった。同社は1915年時点でも供給区域を中津町に限っており、周辺の恵那郡落合村・苗木町などへ供給を拡大するのはその後のことである。 中津電気の事業拡大が遅れる中、恵那郡北部において1908年(明治41年)小県正櫟らの発起により「恵北電気」が計画された。川上村に水力発電所を建設し周辺町村へと配電するという計画である。隣接する付知町においても、1911年(明治44年)3月になって「付知電気」の出願があった。また恵那郡の東隣にあたる長野県西筑摩郡吾妻村(現・木曽郡南木曽町)では前村長の林亀寿郎らによる「木曽電気」の計画があり、木曽川支流蘭川の水利権出願が1910年(明治43年)12月になされていた。 1911年9月、木曽電気発起人に対して蘭川水利権が許可された。また9月4日付で蘭川の発電所を電源に西筑摩郡吾妻村・読書村と恵那郡坂下町に供給するという電気事業経営許可も下りた。23日、水利権許可を受けて木曽電気発起人と恵北電気発起人は将来的な合同を契約、恵北電気発起人が出願中の川上川水利権が許可されない場合は蘭川発電所を先に着工する旨を取り決めた。次いで翌1912年(明治45年)5月、付知電気発起人が恵北電気に合流。さらに同年10月恵北電気発起人も木曽電気に合流してこの地域の電気事業計画は木曽電気へと一本化された。 そして1913年(大正2年)10月16日、資本金10万円をもって木曽電気株式会社の設立に至った。会社の所在地は岐阜県恵那郡坂下町坂下(現・中津川市坂下)。発起人の中から林亀寿郎が社長に、小県正櫟が専務取締役に選出された。
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起業の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 02:13 UTC 版)
大学院では酵素の研究をし、JTで医薬品の開発に携わった。上司や社長を説得してがん治療薬のプロジェクトを3つ立ち上げた。そして4番めに、ウイルス治療をしようと目をつけた。がんの遺伝子治療を開発した岡山大学の田中紀章教授(現、名誉教授)と藤原俊義助手(現、教授)に出会い、最新の成果から腫瘍溶解ウイルスのアイデアを得ることができた。この治療法はハーバード大などではじまっていたが、初期論文によれば副作用は発熱程度で、肝臓、心臓、腎臓の副作用は全然なかった。 教授らも事業化に乗り気だった。ところが、2000年になった頃にJTは抗がん剤の開発をしないと宣言してしまい、大変なショックを受けた。 ベンチャーキャピタルから成功を信じてもらえず出資が得られないまま2年が経過。特許を書き、教授らとJTの仲間数人にも出資してもらって自宅を兼事務所にして会社を設立し、教授らと共同記者会見したのが起業の日。それから駆けずり回って出資金を集めていった。
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