話劇の成立と発展
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文明戯の堕落に反発する演劇人と『新青年』の新文化運動が結びつき、五四運動以後、話劇が確立していく。1924年の戯劇協社『若奥様の扇』(ワイルド『ウィンダミア卿夫人の扇』翻案、洪深演出)成功が、話劇成立の指標である。話劇の成立は、国際的な自由劇場運動の運動の一環でもあった。これ以後話劇は、知識人の演劇として成長していく。田漢、郭沫若などの劇作家が登場した。 1920年代末から30年代にかけて、プロレタリア演劇運動が勃興し、夏衍らが活躍した。一方では国民党政権による相対的安定の中で、中国旅行劇団のような職業話劇団も成立する。曹禺などの劇作家も現れ、彼の『雷雨』(1934)『日の出』(1936)などは多くの劇団で上演され、話劇の発展に貢献した。1935年には国立演劇学校である国立戯劇学校(後に国立戯劇専科学校と改称、国立劇専)も創立された。 1937年に抗日戦争が勃発すると、初期には、演劇人は演劇隊を作り中国各地で短い街頭劇などを巡演した。呉祖光などの劇作家が現れた。1938年以降抗戦長期化が明らかになると、演劇人の視点は戦争下の現実に向かい、中国社会の問題点を掘り下げた多幕物の名作が多数現れた。戦争の影響で映画製作・輸入が弱まったこともあり、演劇は重慶や上海を中心に大いに栄え、郭沫若『屈原』(1942)などが登場する。茅盾、老舎など小説家も劇作を執筆した。三十年代のさまざまな演劇潮流は、戦争という空前の民族的危機の前に衰え、リアリズム演劇が話劇の主流となった。 中国共産党の根拠地延安では、抗日戦争勃発後都市部から大量の青年が入り、彼らの求めで1940年から曹禺など大型名作劇を盛んに上演したが、農民には受け入れがたかった。この傾向などを是正するため、1942年共産党宣伝部が開催した文芸座談会で毛沢東が講話をおこない、文芸の労農兵への奉仕、知識人の思想改造と政治基準の優先が強調された。この講話はまもなく「延安文芸座談会での講話」(文芸講話)として論文化され、1980年頃までの中国文学芸術界の指針となった。座談会以後、当地の民謡を基にした秧歌劇や新歌劇『白毛女』(1945年)などが生まれた。
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