話劇の萌芽と発端
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/12 06:14 UTC 版)
上海では、19世紀末より洋式学校で学生演劇が始まっていた。この学生演劇は未熟なものであったが、次第に上海で広まっていった。この学生演劇は、上海方言を使用していた。 20世紀初頭は中国人日本留学の最初のピークであった。在日中国人留学生の芝居好きが1906年秋に日本の新派や文芸協会の影響で春柳社を結成した。春柳社は東京で1907年2月に『茶花女』(『椿姫』脚色)を、同年6月に『黒奴籲天録』(こくどゆてんろく 『アンクルトムの小屋』脚色)を上演し、大成功を収めた。春柳社は国語(標準語)を用いていた。春柳社からは、その後の話劇運動をリードした人材も生まれ、今日では中国話劇の起点とされている。 春柳社『黒奴籲天録』公演成功の反響はただちに上海に伝わり、過渡的な演劇である文明戯(早期話劇)が辛亥革命に至る革命運動と結びついて成立した。1914年頃全盛期を迎え、新民社、民鳴社、春柳社(新劇同志会)などが活躍したが、まもなく商業主義の影響で堕落・衰退していった。
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