『屈原』
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『屈原』は、1941年に起こった皖南事変によって国民党の主たる任務が抗日から反共に移行され、活動の自由を奪われた中で作られた、六部歴史劇の一つである。壮年期の屈原の悲劇を五幕で構成し作品にした。 『詩経』と『楚辞』は、中国古代が遺した、文学における貴重な産物であるが、後世への影響から言えば『楚辞』の方が大きい。『楚辞』の中の作品の圧倒的多数が屈原の作であり、中国歴代の詩人のうち屈原の影響を受けたことのない者は一人としていないと言える。その為、郭沫若も屈原の影響を受けた一人といっても過言ではない。 郭沫若の処女詩集『女神』(1921年)は、五四運動前後の反帝反封建的時代の精神を反映し、芸術の独創性の鮮明さと斬新な自由体形詩をもって当時大きな影響力を与えた。その作品の中の「女神三部曲」の「湘累」に黒衣の屈原が登場する。また1935年には史的考証と文学鑑賞を兼ねた研究書『屈原』(後『屈原研究』と改題)を出版しているおり、郭沫若が屈原を題とした創作を試みていたことが分かる。 史劇『屈原』は、時は戦国時代、楚の懐王16年、楚国の都郢を舞台に話が繰り広げられる。作品の第一幕は屈原と宋玉の対話から始まる。屈原は宋玉を想い、「橘頌」を送る。時同じく、張儀が秦国から受けた“斉国と楚国の国交断絶策”を失敗し魏国に赴くという報告を受ける。第二幕では懐王の妃の南后が張儀と手を組み、屈原を陥れ、懐王からの信頼を壊す行動をとる。結果屈原は“気狂い”とされ信頼を失った。第三幕で屈原のためと行なった招魂がまた屈原を怒らすこととなり、遂に失踪する。忠誠を誓っていた宋玉も王宮へ移ることとなる。第四幕はただ一人屈原を信じていた侍女の嬋娟が屈原の後を追う場面が展開される。屈原も再び懐王に会って訴えるも聞き入れてもらえなかった。結果第五幕で牢生活を送ることとなる。屈原と共に脱獄を図ろうとした嬋娟は、毒薬の入った酒を飲んでしまい死んでしまう。屈原は嬋娟を光明の使者と称えて弔う場面で幕を下ろす。 『屈原』は昔の人物や事物に事寄せて作品の出来た当時を風刺している。皖南事変で、人民の国民党反動派に対する憎しみを巻き起こし、彼らの偽抗日・真反共や売国して敵に投降し、忠誠心を損なう罪悪な行動を激しく非難した。抗日戦下に、国党区の当時の首都であった重慶で上映され熱狂的な人気を呼んだ『屈原』は、戦後の日本でも1952年、1962年の二回に渡り公演され、独立と自由を求める日本人の共感を呼んだ。
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