『屈原』とは? わかりやすく解説

『屈原』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:28 UTC 版)

郭沫若」の記事における「『屈原』」の解説

『屈原』は、1941年起こった皖南事変によって国民党主たる任務抗日から反共移行され、活動の自由を奪われた中で作られた、六部歴史劇一つである。壮年期屈原悲劇を五幕で構成し作品にした。 『詩経』と『楚辞』は、中国古代が遺した、文学における貴重な産物であるが、後世への影響から言えば楚辞』の方が大きい。『楚辞』の中の作品圧倒的多数屈原の作であり、中国歴代詩人のうち屈原影響受けたことのない者は一人としていないと言える。その為、郭沫若屈原影響受けた一人といって過言ではない。 郭沫若処女詩集女神』(1921年)は、五四運動前後反帝封建的時代の精神反映し芸術独創性鮮明さ斬新な自由体形詩をもって当時大きな影響力与えたその作品の中の「女神三部曲」の「湘累」に黒衣屈原登場する。また1935年には史的考証文学鑑賞兼ねた研究書『屈原』(後『屈原研究』と改題)を出版しているおり、郭沫若屈原を題とした創作試みていたことが分かる史劇『屈原』は、時は戦国時代懐王16年楚国の都郢を舞台に話が繰り広げられる作品第一幕屈原宋玉対話から始まる。屈原宋玉想い、「頌」を送る。時同じく張儀秦国から受けた斉国楚国国交断絶策”を失敗し魏国赴くという報告を受ける。第二幕では懐王の妃の南后が張儀手を組み屈原を陥れ、懐王からの信頼を壊す行動をとる。結果屈原は“気狂い”とされ信頼失った第三幕屈原のためと行なった招魂がまた屈原怒らすこととなり、遂に失踪する忠誠誓っていた宋玉王宮へ移ることとなる。第四幕はただ一人屈原信じていた侍女嬋娟屈原後を追う場面展開される屈原も再び懐王会って訴えるも聞き入れてもらえなかった。結果第五幕で牢生活を送ることとなる。屈原と共に脱獄図ろうとした嬋娟は、毒薬入った酒を飲んでしまい死んでしまう。屈原嬋娟光明使者称えて弔う場面で幕を下ろす。 『屈原』は昔の人物や事物事寄せて作品出来た当時風刺している。皖南事変で、人民国民党反動派に対す憎しみ巻き起こし、彼らの偽抗日・真反共売国して敵に投降し忠誠心損な罪悪な行動を激しく非難した抗日戦下に、国党区の当時首都であった重慶上映され熱狂的な人気呼んだ『屈原』は、戦後の日本でも1952年1962年の二回に渡り公演され独立と自由を求め日本人共感呼んだ

※この「『屈原』」の解説は、「郭沫若」の解説の一部です。
「『屈原』」を含む「郭沫若」の記事については、「郭沫若」の概要を参照ください。

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