設立の経緯 - 病院・研究所・運営部の三者体制の確立とは? わかりやすく解説

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設立の経緯 - 病院・研究所・運営部の三者体制の確立(1961-62年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 04:24 UTC 版)

国立がん研究センター」の記事における「設立の経緯 - 病院・研究所・運営部の三者体制の確立(1961-62年)」の解説

日本では第二次世界大戦後それまで感染症代わり悪性新生物(がん)による死亡率急速に上昇し1953年には死因二位となり、その翌年から全国国立大学にがん診療施設設けられることになった。やがて、そうした各地のがん診療施設拠点となる国立機関必要性うたわれるようになり、1959年厚生省が「がんセンター」を発表。翌1960年、「国立がんセンター設立準備委員会」が立ち上げられた。当初の構想では、財団法人癌研究会(癌研)を吸収するかたちでの一本化考えられていたが、設立準備委員会での議論結果、癌研と並立するかたちで設立されることになった厚生大臣灘尾弘吉医学界最高権威を幹部にすることで優れた研究者集めるようにし、それまで違った病院スタイル打ち出そう発案。「センター」という言葉は、灘尾が内務省若手のとき、欧米資料翻訳するに当たり、訳語作らずそのままセンター」として使ったのが始まりで、漢字平仮名片仮名混ざった看板を書く灘尾には感慨があった。「センター」という言葉ここから広く使われるようになった1961年度予算建設費初年度運営費など9億5千万円が計上され予定となった東京都中央区築地旧海軍軍医学校建物改装が始まる。初代総長には田宮猛雄日本医学会会長)が選ばれた。当時日本医師会会長がんセンター設立立役者一人であった武見太郎が、脱学閥、脱派閥による人物本位人材起用提言しており、派閥中立的な田宮白羽の矢立ったのである田宮は、病院長久留勝大阪大学研究所長)を、研究所長に中原和郎(癌研究所長)を指名しがんセンター組織作りあたった。このときの組織作り特徴的だったのが、武見太郎見識によって、病院研究所有機的につなぐために、両者コーディネーター役として運営部独立させたことである。運営部存在によって組織内医師研究者その本来の職務専念できるようになり、また、同時に運営部は、全国的ながん対策中核としての機能も果たすことになった。そして、総長は、これら病院研究所運営部の三組織統轄する者として位置づけられた(がんセンターシンボルマークは、病院研究所運営部一つ共同体であることを象徴させたものでもある)。

※この「設立の経緯 - 病院・研究所・運営部の三者体制の確立(1961-62年)」の解説は、「国立がん研究センター」の解説の一部です。
「設立の経緯 - 病院・研究所・運営部の三者体制の確立(1961-62年)」を含む「国立がん研究センター」の記事については、「国立がん研究センター」の概要を参照ください。

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