設立の経緯 - 病院・研究所・運営部の三者体制の確立(1961-62年)
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「国立がん研究センター」の記事における「設立の経緯 - 病院・研究所・運営部の三者体制の確立(1961-62年)」の解説
日本では第二次世界大戦後、それまでの感染症に代わり悪性新生物(がん)による死亡率が急速に上昇し、1953年には死因の二位となり、その翌年から全国の国立大学にがん診療施設が設けられることになった。やがて、そうした各地のがん診療施設の拠点となる国立機関の必要性がうたわれるようになり、1959年、厚生省が「がんセンター」を発表。翌1960年、「国立がんセンター設立準備委員会」が立ち上げられた。当初の構想では、財団法人癌研究会(癌研)を吸収するかたちでの一本化も考えられていたが、設立準備委員会での議論の結果、癌研と並立するかたちで設立されることになった。 厚生大臣・灘尾弘吉が医学界の最高権威を幹部にすることで優れた研究者を集めるようにし、それまでと違った病院スタイルを打ち出そうと発案。「センター」という言葉は、灘尾が内務省の若手のとき、欧米の資料を翻訳するに当たり、訳語を作らず、そのまま「センター」として使ったのが始まりで、漢字、平仮名、片仮名の混ざった看板を書く灘尾には感慨があった。「センター」という言葉はここから広く使われるようになった。1961年度予算で建設費、初年度運営費など9億5千万円が計上され、予定地となった東京都中央区築地の旧海軍軍医学校の建物の改装が始まる。初代総長には田宮猛雄(日本医学会会長)が選ばれた。当時の日本医師会会長でがんセンター設立の立役者の一人であった武見太郎が、脱学閥、脱派閥による人物本位の人材起用を提言しており、派閥中立的な田宮に白羽の矢が立ったのである。 田宮は、病院長に久留勝(大阪大学癌研究所長)を、研究所長に中原和郎(癌研究所長)を指名し、がんセンターの組織作りにあたった。このときの組織作りで特徴的だったのが、武見太郎の見識によって、病院と研究所を有機的につなぐために、両者のコーディネーター役として運営部を独立させたことである。運営部の存在によって組織内の医師や研究者がその本来の職務に専念できるようになり、また、同時に運営部は、全国的ながん対策の中核としての機能も果たすことになった。そして、総長は、これら病院、研究所、運営部の三組織を統轄する者として位置づけられた(がんセンターのシンボルマークは、病院・研究所・運営部が一つの共同体であることを象徴させたものでもある)。
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