計画経済批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 07:03 UTC 版)
詳細は「計画経済」を参照 マックス・ヴェーバーは、近代産業社会において官僚制化の過程が浸透すれば、新たな隷従をうむと診断しており、これはマルクスとも共通していたとも指摘されているが、生産手段の国有化は労働者の状態を悪化させるし、資本主義には欠陥もあるが、社会主義的な国家統制型の経済秩序よりもましであって、計画経済よりも交換経済の方がよいと、マルクス主義を批判した。1918年講演「社会主義」では、生産手段の社会化によって階級闘争が終止符を打つことは決してない、と批判した。 レーニンは著書『国家と革命』の中で、共産社会が実現した暁には国家経済の運営は極めて単純になり、郵便事業をモデルとした読み書きと四則演算ができる程度の人材であれば、誰でもその運営に携われるとしたが、実際には計画経済を立案・実施するためには、極めて専門的な知識と技能をもったエリート集団が必要となり、庶民とはかけ離れた特権的官僚組織「ノーメンクラトゥーラ」を生み出した。 また、治安維持についても「泣いている子がいれば近所の人間が黙っていないように」社会が自発的に秩序を保つと予言したが、実際にソ連国家が生み出したのは秘密警察や強制収容所(ラーゲリ)での強制労働・組織的拷問などの歴史上まれに見る権力による暴力組織であった。 ソ連の経済政策の結果、ウクライナ人1,450万人が犠牲となった人工的な大飢饉ホロドモールが1932年-33年に発生した。また中華人民共和国でも1958年から大躍進政策が実施され、人工的な大飢饉によって推計5000万人が犠牲になった。アマルティア・センは、こうした人工的な飢饉は政策によって回避できるとして批判した。 また、需給に関する全ての情報が効率的に集められない以上、効果的な計画経済は不可能であるとの指摘(経済計算論争)もある。現実に、道路建設・住宅建設・軍事産業・宇宙事業などの大規模な重厚長大産業では大きな効果を発揮したが、スピードと多様性が要求される情報産業やサービス産業には対応できず、民需品の品質は低いものが多かった。1960年代後半には、宇宙開発でもアメリカ合衆国の後塵を拝した。ソビエト共産党自身もその不合理性を認め、政治・経済の自由化を推し進め、1991年に解散した。
※この「計画経済批判」の解説は、「マルクス主義批判」の解説の一部です。
「計画経済批判」を含む「マルクス主義批判」の記事については、「マルクス主義批判」の概要を参照ください。
- 計画経済批判のページへのリンク