蛇と救世主の魂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 00:49 UTC 版)
各民族、各宗教の古代神話には、根源的な存在としての神と世界創生において誕生する被造物についての物語が共通して見られるのだが、もちろんヘブライ聖書にもそれらを見出すことができる。しかもカバリストによれば、ヘブライ聖書には、イスラエルの神が地獄を支配する悪の権化を相手に闘争を繰り広げていたことの暗示がみられるという。その権化は、ナハシュ・バリァハ(逃げる蛇)、タンニーン(竜)、レヴィヤタン(怪物)などと呼ばれている。(以下、引用はすべて新共同訳聖書より) 「 お前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ/その舌を縄で捕えて/屈服させることができるか。-『ヨブ記』 40:25あなたは、御力をもって海を分け/大水の上で竜の頭を砕かれました。-『詩篇』 74:13その日、主は/厳しく、大きく、強い剣をもって/逃げる蛇レビヤタン/曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し/また海にいる竜を殺される。-『イザヤ書』 27:1 」 ところがシャブタイ派の教義では、これらの章句は善と悪、光と闇といった相反するふたつの勢力間における闘争の暗示ではなく、神自身に備わったふたつの側面による闘争の暗示であるとし、蛇のような存在はその一側面の具現化にすぎないとしている。また、古代の伝承によれば、古の時代の蛇は翼を持っており、鳥ではなく蛇として大空を飛ぶことができたという。 「 「(前略)蛇の根から蝮が出る。その子は炎のように飛び回る。」-『イザヤ書』 14:29 」 つまり、蛇の活動は世界の摂理における調和と安定に寄与しているのであり、万物を維持するためには必要不可欠な要素であるという。蛇のパーソナリティは神性を備えたツヴィのそれと対極にあるのではなく、蛇の目的もまた世界に救済をもたらすことにあり、それはすなわちツヴィの神性をも救済することになる。この世界観には、ルリアの弟子であったヨセフ・イブン・タブールによるツィムツム(神の自己収斂による世界創生を意味するルリア思想の中心概念)についての注釈の影響が多分に認められる。ルリアのカバラではツィムツムによる世界創生は失敗に終わったと説かれており、ラビ・ハイム・ベン・ヨセフ・ヴィタル(1543年〜1620年)など彼の弟子の多くはその思想を継承していた。ところがイブン・タブールだけは、ツィムツムは成功裏に完了しており、その後、神の思惑通りにエン・ソフが流出してケリフォトの浄化がはじまった考えていた。 シャブタイ派の教義は突飛な発想によって打ち立てられた革新的な理論ではない。並み居るカバリストの査証に耐えながら幾世代にもわたって信頼されてきた古典的なテキストにこそより多くの価値を認めるという点で、むしろ原理主義と言った方がふさわしいのかもしれない。たとえば、ラビ・ヨセフ・ジカティラ(1248年〜1310年)の著作もそのひとつである。 「 以下の言葉を理解し、信じてください。世界創生のさいに姿を現したかの蛇は偉大な存在でした。彼には世界修復に不可欠な権能が与えられていました。つまり、君主制や奴隷制などによる地上の罪に耐え忍ぶために創造されたのです。蛇は世界を縦横無尽に這い回ります。その頭は聖なる地にまで達し、その尾は冥府の底にまで届いています。蛇はそれぞれの場所で自らの役割を遂行し、全世界を修復へと導くのです。-『ソッド・ハ=ナハシュ・ウ=ミシュパトー』( ラビ・ヨセフ・ジカティラ著)より引用 」 『ゾハル』のなかにも蛇にまつわる重要な描写がある。それによると、蛇は「シェヒナー」(神の霊)の子宮を開く者とされている。つまり、神性が備える女性的な側面を活動領域とし、女性的なものを浄化させるのである。シャブタイ派が伝えた神話では、偉大な救世主は不浄な世界を這い回る聖なる蛇としてケリフォトで捕えられたのだが、ハアラアト・ハ=ニツォツォットを達成させるため敵と戦った述べている。ナタンはこれに関連して、モーセがシナイの荒れ野で造ったとされるナハシュ・ネフシャタン(青銅の蛇)に注目している。『民数記』の21章によれば、イスラエルの民は蛇にかまれてもナハシュ・ネフシャタンを見るだけ蛇の毒から癒されていたという。
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