茂平村越県合併騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 22:38 UTC 版)
1963年(昭和38年)頃、旧茂平村地区が笠岡市(岡山県)より分離、福山市(広島県)との越県合併を模索した騒動である。 背景 岡山県の西端に位置する旧茂平村地区は旧来より経済的(同じ商圏に属し)、地理的(境界に河川などの天然障壁がなく)、社会的(多くの住民の親戚等が福山市に居住および福山市出身の住民が多い)に隣接する福山市域との結びつきが特に強く歴史的にも再三広島県側と合併が陳情されてきた地域である。一方で当時、茂平村から笠岡湾に隔てられた笠岡市中心部へ陸路でアクセスするためには県境を越えた最寄り駅である大門駅(広島県)からの鉄路及び内陸部を経由する大回りルートを取る必要があった為交流が少なく、編入されて僅か10年ほどの笠岡市への帰属意識は低かった。さらに笠岡市自体も金浦町との対等合併による成立から僅か10年ほどで市域は分断されており市としての一体感は小さかった。なお旧茂平村地区は笠岡市、福山市の中間に位置し当時両市の人口は拮抗していた。戦後の岡山県は三木行治行政の下全国総合開発計画に合わせて指定された新産業都市「岡山県南地域」の中核に水島臨海工業地帯を置き、県の中核的工業地帯として集中的に資源を投下していた。一方、指定を外れた県境の縁辺都市である笠岡市の周辺は干拓事業など農業による緩やかな経済復興を目論んでいたため、工業整備特別地区に指定され鉄鋼や造船を核に重工業化が加速度的に進む福山地区とは大きな温度差が生じていた。 騒動の経緯 1961年日本鋼管の世界最大規模の新工場が茂平村地区、広島県深安郡深安町、福山市沖へ進出することが決定。それに伴い1962年深安郡深安町が福山市と合併、茂平村地区が福山市と隣接するようになる。当時、福山市は経済面、人口面の規模が急拡大、松永市との合併による大規模な市の誕生も見込まれていた。また鋼管建設に茂平地区から多くの住民が福山市に越境し従事したことに加え、福山市では旭ヶ丘団地などの大規模な住宅開発が行われ地価が急激に上昇していた。更に1963年岡山県の東端和気郡日生町福浦が強い住民運動の末兵庫県赤穂市と合併、編入。このような状況に刺激をうけた住民が1962年ごろより大規模な合併運動を開始。当時広島県議会議員中川弘(のち福山市長に就任)賛同のもと、福山市議会議員数人の賛同も得た。また、城見村内で旧茂平村地区と同じ境遇の旧用之江村地区も福山市との合併に賛同し共同で運動を始めた。そして1963年旧茂平村地区、旧用之江村地区合名で福山市に合併嘆願書を提出した。茂平地区を含めて現笠岡市域は大部分が旧備中国、福山市域は大部分が旧備後国ではあるが江戸期以降はいずれも同じ福山藩領であった。 騒動の終結 福山市に合併嘆願書が提出されると、主要メディアに取り上げられ岡山県、県議会、笠岡市議会、漁業権を失うことを懸念した漁業協同組合などから大々的な反対運動が起こる。日生町福浦に続き、生活圏を理由に県の区域が次々に他県に奪われる事を懸念していた岡山県は特に大きな抵抗を行い県議会からの干渉、県議員の来訪も続いた。また、翌年(1964年)岡山県知事に地元出身の加藤武徳が就任すると反対運動はさらに大きくなり、茂平村地区などのさらなる開発の推進を約束したこともあり騒動は収束する。
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