騒動の終結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 15:29 UTC 版)
万治2年(1659年)3代藩主として種信が相続する。種信は未だ専横甚だしい白井一派の勢力を減殺する機会を窺っていた。その種信の相続は白井派への圧力となり、種信が初めて高鍋へ入国するとまず斉藤五郎右衛門が逃亡し、寛文元年(1661年)に検地を行うと竹原仁右衛門、服部左門、大場久右衛門らが出奔した。更に寛文3年(1663年)の1月に白井種重が謀反を企てているという風聞が立った。種重と嫡子の権之助は他心の無いことを示したが、間もなくして白井種重は死去した。 白井一派への圧力は続き、翌寛文4年(1664年)2月に河野七郎兵衛が浪人を申し付けられ、中元寺軍兵衛が切腹を申し渡された。10月には竜雲寺住職の天雪が追放され、翌月には木村図書、竹原弥一兵衛らが脱藩し逃亡した。 それでも種信は同年12月に種重嫡子の権之助を家老に任じた。しかし、翌寛文5年(1665年)に坂田大学の甥の坂田宮内も家老に任命し、同年7月に権之助を家老より罷免した。 白井派の掃討は尚も続けられ、寛文6年(1666年)6月に、種重の手先として殺戮に手を染めていた泥谷権之丞を成敗した。そして同年10月、権之助も藩より追放された(了解を得て退去したとも)。 白井一族の男は既に死去しているかこの度に浪人となり、女系以外は藩内より一掃され、騒動はようやく終結するに至った。
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