艦船用から業務・家庭用へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 16:27 UTC 版)
第一次世界大戦の終了後、世界の艦船の燃料は技術の発達により、石炭から石油へと移行していった。これは1894年にタービニア号が登場し、蒸気タービン機関は、それまでのピストン往復に基づくレシプロ式の蒸気機関と比較し、圧倒的な性能を示したことに寄る。特に日本海軍は日露戦争後の八八艦隊計画以降「艦船燃料を石炭から重油に変える方針」により、軍用艦船の燃料はそれまでの石炭から石油へと大きく転換した。また海運界も第一次大戦後の不況克服策の面からも大型高速ディーゼル船の採用を積極化し、1926年(大正15年)には総トン数におけるディーゼル船の比率は半数に達した。それらを受け船舶燃料用の角型塊炭から、業務や家庭での熱源として、練炭の位置づけは変わって行った。家庭では現在のような蓮状の穴のある円柱の練炭ではなく、当初は豆炭が燃料として主に用いられた。江戸時代から炭団は広く家庭用燃料としての必需品であり、炭団の需要を置き換える形で、より高火力で燃焼時間の長い豆炭が広まって行った。 1909年(明治42年)東京上野にてイギリス人陶芸家バーナード・リーチが正座が苦手なために自宅に「腰掛け炬燵」を設置する。志賀直哉、里見弴が随筆で誉めた事が宣伝となり、昭和初期に日本全国へと普及した。それにより、熱源部分の分類であった掘り炬燵と言う名称が、腰掛け炬燵の意味となった。 1919年(大正8年)三鱗石炭株式会社(現在の三鱗事業株式会社)が設立される。 1920年(大正9年)川澄政が、豆炭を発明する。 1921年(大正10年)10月31日、川澄政が、川澄煉炭株式会社を設立する(現在の株式会社ミスジ)。同年、海軍では海軍採炭所及び海軍練炭製造所を廃止し、海軍燃料廠が設立される。 1922年(大正11年)9月、大阪市港区石田町にて、株式会社十全商会が設立され豆炭の製造販売が開始される。 1926年(大正15年)5月、三鱗石炭株式会社と三井物産株式会社との合弁にて三鱗煉炭原料株式会社が創立される(現在の株式会社ミツウロコ)。
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