舞台装置・効果・演出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 06:33 UTC 版)
「グランド・オペラ」の記事における「舞台装置・効果・演出」の解説
パリのオペラ座は、このような大規模な舞台が可能となるよう設計されていた。舞台幅、奥行ともは30メートル超、奥行にかけて最大12枚の中間幕を上下させられる構造であった。複雑な演目では、60人の機械操作担当者とそれ以上の人数の助手を要したという。 1832年からは、舞台照明としてそれまでの灯油ランプではなく、ガス灯を全面的に用いている。ガス灯は単に無煙で明るいというばかりでなく、ガス流量を手元制御することで機動的な明暗付けが可能であり、舞台効果の発達につながった。またガス灯によって明るくなった舞台がもたらした変化として、歌手や合唱団員の大袈裟なジェスチャー、表情付けが歓迎されなくなり、より微妙な演技が歓迎されるようになったとの説もある(もっとも、当時の舞台所作を正確に伝える資料は存在しない)。 そして舞台装置の点でグランド・オペラを支えたのが、ピエール・シセリとルイ・ダゲールの2人だった。1816年から1848年までの長きにわたりオペラ座の絵画主任(peintre en chef)に任ぜられたシセリは歴史的感覚に秀で、壮大な、しかし詳細な歴史的考証に基づいた舞台装置を作成した。『ウィリアム・テル』公演の考証のために、彼はわざわざスイスとイタリアへの旅行も行うほどであった。ダゲレオタイプ(実用写真術の原型)の創始者としてより有名なダゲールは、彼の「パノラマ」あるいは「ジオラマ」と称する技術で、それら装置に立体感を与えた。2人の共同になる典型例は、上記オーベールの『ポルティチの唖娘』の第5幕の装置であり、そこでは舞台手前には壮麗な宮殿、中景には森林と街並み、そして最後景にはヴェスヴィオ火山を配し、しかもクライマックスでその火山は花火仕掛けで大噴火し、そこから流れ出た溶岩が舞台全面を覆うのだった。 当初オペラ座公演では、既存他演目の装置の流用がコスト的観点から奨励されないまでも黙認され、シセリはこの「リサイクル」の点でも天才的な手腕を発揮したという。しかし1831年には「新演目は新たな装置と衣装で上演されなければならない」とする規則が加わり、舞台装置に新奇性を求める風潮に一段と拍車がかかった。その場合、時代考証に始まり、装置・衣装製作、譜面完成後の長期にわたるリハーサル等、新作公演には最低18か月の準備期間を要した。 舞台が大規模となり、またそこに同時に出演する歌手、合唱、エキストラ、バレエ陣などの人数が増加するのに伴い、舞台進行の整理役が必要になってきた。19世紀前半はまだ「演出家」と呼ぶに足る職業は影も形もなかったが、この頃からステージング・マニュアル(livret de mise-en-scène)が整備・保存されるようになり、当時のオペラがどのように舞台化されていたのかを今日知る手がかりになっている。
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