興禅寺での刃傷事件とは? わかりやすく解説

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興禅寺での刃傷事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 02:29 UTC 版)

浄瑠璃坂の仇討」の記事における「興禅寺での刃傷事件」の解説

詳細は「宇都宮興禅寺刃傷事件」を参照 発端は、寛文8年3月2日1668年4月13日)、下野興禅寺(宇都宮市)宇都宮藩の前藩主奥平忠昌法要での口論である。 「七族五老」と呼ばれる重臣12家のうちの2家の当主であった平内允(奥平家譜代衆である五老の家柄。奥平一族の奥平正勝名跡継いだ家のため血縁上は主君奥平家傍流。別名「黒屋家」。1000石取)と奥平隼人主君奥平家傍流にあたる七族の家柄。別名「中金家」。1300石取)の2人が亡主忠昌の法要において、ささいなことから口論となり(遅刻した内蔵允を隼人面罵したのが切っ掛けとされる)、憤慨する内蔵允が隼人向かって抜刀したが、返り討ち遭って怪我負ってしまった。 居合わせた大身衆(五老)の同輩・兵玄蕃1000石取)などの仲裁により、双方それぞれの親戚宅へ預かりの身となった。だが、その夜内蔵允は切腹する藩庁へは、興禅寺での刀傷から「破傷風死去」と報告された。 藩の処分事件から半年経た9月2日10月7日)に下された隼人へは改易内蔵允の嫡子源八当時12歳)、ならびに内蔵允の従弟・伝正長へは家禄没収の上追放申し渡された。奥平家追い出されるかたちでありながら両者には大きな差があった。両成敗ならば隼人切腹となるはずである。それが、源八たちへは即日退去命じておきながら、隼人と、その父・半斎へは物々しい護衛付けて送り出しているのである。その隼人親子らは、江戸旗本大久保助右衛門屋敷身を寄せた。 そのためこの処分には喧嘩両成敗則せず不公平である、と追放され源八とその一族同情する者が続出したなかには奥平家見限って浪人の身となる者さえ現れた。こうして源八一党は、軽輩もとより重臣の子弟までもが含まれる一団となり、源八一党仇討誓って3年余も雌伏することとなった源八同情して自ら浪人の身となって源八助太刀をかってでた主な奥平家藩士は、40数名及んだ仇討ち作戦計画立案実行首謀者は「桑名頼母という知られざる智謀の士であった」という(後述のように元奥平藩士・桑名友之丞の弟)。源八同情して自ら浪人の身となって源八助太刀をかってでた主な奥平家藩士および陪臣は、以下の通り1200石 - 夏目勘解由嫡男300夏目外記とその家来五十三郎兵衛門・平野長右衛門斉藤左衛門仲間右衛門 500石 - 奥平伝(26歳家来岡田衛門・甚五右衛門 600石 - 平左門 家来新家右衛門 400石 - 桑名友之丞・弟頼母・弟三七家来市郎右衛門 300石 - 白川八郎左衛門 大關信濃守浪人外記伯父 300石 - 後藤衛門 300石 - 菅沼太夫菅沼五郎兵衛 250石 - 生彌左衛門長男五郎次男七郎三男四郎 200石 - 細井左衛門 100石 - 細井兵衛 100石 - 三輪庄兵衛 100石 - 上曽根五衛15石 - 大内重太夫 15石 - 武井兵衛 15石 - 川三之助 1200石 - 兵玄蕃嫡男200主殿

※この「興禅寺での刃傷事件」の解説は、「浄瑠璃坂の仇討」の解説の一部です。
「興禅寺での刃傷事件」を含む「浄瑠璃坂の仇討」の記事については、「浄瑠璃坂の仇討」の概要を参照ください。

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