石 - 生とは? わかりやすく解説

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石生

読み方:イシュウ(ishuu)

所在 岡山県勝田郡勝央町

地名辞典では2006年8月時点の情報を掲載しています。

石生

読み方:イソウ(isou)

所在 兵庫県(JR福知山線)

駅名辞典では2006年8月時点の情報を掲載しています。

石生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 18:12 UTC 版)

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石 生(せき せい、? - 333年)は、五胡十六国時代後趙の皇族。後趙の初代皇帝石勒の養子。

生涯

石勒の挙兵に付き従い、将軍に任じられてその養子となった。

320年1月、東晋司州刺史李矩前趙領の金墉(洛陽城内の西北の角にある小城)を攻略すると、前趙の将軍左中郎将宋始・振威将軍宋恕・尹安・趙慎は寝返って洛陽ごと後趙に降伏した。その為、石勒の命により、石生は宋始らの受け入れの任に当たった。だが、彼らは心変わりして李矩に投降してしまい、李矩は潁川郡太守郭黙に兵を与えて洛陽に入らせた。その為、石生は宋始軍を攻撃すると、これを破って将兵を尽く捕虜とし、黄河を渡って北へ引き上げた。

後に衛将軍・司州刺史に任じられた。

323年、石生は陽翟を守る東晋の揚武将軍郭誦を攻撃したが打ち破れず、襄城へ転進して千人余りを捕虜にして帰還した。

324年、石生は前趙領の新安を攻め、河南郡太守尹平を殺害すると、10を超える砦を陥落させ、5000戸余りを奪ってから撤収した。

同年、石生は延寿関から許潁(許昌・潁川)へと侵攻し、1万人余りを捕虜として2万人を降伏させ、遂には康城を陥落させた。だが、東晋の将軍郭誦より猛追を受け、千人余りの兵を失っので、離散した兵をかき集めて康城に籠城した。後趙の汲郡内史石聡はこれを知ると石生救援に向かい、東晋の将軍郭黙・李矩を破って石生を救った。

5月、石生は雍州刺史に任じられると、兵3千を率いて洛陽の金墉城を鎮守した。

その後、河南へ進んで各地を荒らし回った。李矩・郭黙はこれを迎撃したが、石生は幾度も撃ち破った。その為、李矩らは前趙へ降伏の使者を派遣して救援を求めた。前趙の皇帝劉曜はこれに応じ、劉岳を盟津から渡河させ、鎮東将軍呼延謨には荊州・司州の兵を与え、崤澠から東へ進軍させた。劉岳は盟津、石梁の2砦を攻め、これを陥落させて5000余りの首級を挙げた。さらに金墉へ進むと、石生を包囲した。中山公石虎は4万を率いてこれを救援し、劉岳軍を包囲してこれを破り、さらに呼延謨を殺した。

326年4月、石生は汝南へ侵攻し、東晋の内史祖済を捕らえた。

12月、東晋の済岷郡太守劉闓・将軍張闔らが反旗を翻すと、下邳内史夏侯嘉を殺して石生に帰順し、下邳を明け渡した。

328年7月、劉曜は自ら出征して金墉を守る石生を攻撃すると、千金堤を決壊させて水攻めにした。滎陽郡太守尹矩・野王郡太守張進は劉曜に降伏したので、襄国に激震が走った。12月、石勒は自ら軍を率いて洛陽救援に向かうと、劉曜を破ってその身柄を捕らえた。

329年、中山公石虎が前趙の残党勢力が守る上邽へ侵攻すると、石生はこれに従軍し、洛陽の兵を率いて長安に入った。8月、前趙の南陽王劉胤らは数万の兵を率いて長安へと侵攻すると、隴東武都安定新平北地扶風始平の諸郡のは皆挙兵して劉胤に呼応した。劉胤が仲橋まで軍を進めると、石生は長安の守りを固めた。9月、石虎は騎兵2万を率いて劉胤を迎え撃ち、これを破った。劉胤が上邽へと敗走すると、石虎は勝利に乗じて追撃を掛け、上邽を攻め落とした。

以後、長安に留まって関中を鎮守した。

330年2月、石勒が趙天王を称すと、石生は河東王に封じられた。

同年、秦州休屠の王羌が反乱を起こすと、氐・羌は一斉にこれに呼応した。石勒の命により、石生は隴城に派遣されて対処に当たった。王羌の兄子である王擢は王羌と不仲であったので、石生は王擢に賄賂を贈って王羌を挟撃した。これにより王羌は大敗して涼州へと敗走した。そして、秦州にいる夷人の豪族5千戸余りを雍州に移した。

333年7月、石勒が崩御すると、皇太子石弘が後を継いだが、丞相となった石虎は朝政を専断し、要職にはみな自らの側近を起用した。10月、石生は洛陽を統治する石朗と呼応し、石虎討伐の兵を挙げた。石生は秦州刺史を自称すると、東晋に使者を派遣して帰順を請うた。石虎は子の石邃に襄国の守備を任せると、自ら歩兵騎兵7万を率いて出撃した。石朗はこれを迎え撃つも敗北を喫し、捕らえられて処刑された。石虎はさらに進軍を続けて長安に到達すると、子の石挺を前鋒大都督に任じた。石生は将軍郭権に鮮卑の渉璝部の兵2万を与えて前鋒に命じ、石虎を迎え撃たせた。また、自らも大軍を統率して後続し、蒲坂まで進んだ。郭権は潼関において石挺軍と激突すると、大勝を挙げて石挺・丞相左長史劉隗らを尽く討ち取り、屍は三百里余りに渡って連なった。これにより、石虎は澠池まで軍を退いた。郭権配下の鮮卑は密かに石虎と通じており、石生を裏切って攻撃に転じた。この時、石生は蒲坂に軍を留めており、石挺が敗れて戦死した事を知らなかったので、鮮卑の反乱に恐れ慄き、単騎で長安へ逃走した。石虎は石生が逃亡したと知ると、軍を進めて入関した。石生は石虎の到来を知ると長安を維持できないと考え、隴上へと移ろうとし、将軍蒋英に長安を守らせた。だが、士卒はみな逃げ散ってしまったため、鶏頭山(鄠県の東にある)へと潜伏した。石虎は長安へ侵攻すると、10日余りでこれを陥落させ、蒋英らを処断した。石生もまた部下の反乱により鶏頭山において殺害された。

参考文献


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