興福寺の乱入
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『玉葉』(九条兼実の日記)によれば、文治3年(1187年)に興福寺の僧兵が山田寺に押し入り、講堂本尊の薬師三尊像を強奪して興福寺東金堂の本尊に据えたと記録されている。発掘調査では金堂・塔・講堂が12世紀末に焼失した事が確認されており、この事件の際に焼き討ちされたと考えられている。また『興福寺略年代記』の承久2年(1220年)の記述に「山田寺鐘西金堂引之」とあるのも、この時に収奪された鐘である可能性を指摘されている。 当時の興福寺は平重衡の兵火(治承4年・1180年)で炎上後、再興の途上であった。この薬師如来像は応永18年(1411年)の東金堂の火災の際に焼け落ち、かろうじて焼け残った頭部だけが、その後新しく造られた本尊像の台座内に格納されていた。この仏頭は昭和12年(1937年)に再発見されるまでその存在は知られていなかった。なお、共に強奪された両脇侍の日光菩薩・月光菩薩は興福寺東金堂に健在で、再興像の薬師如来像とともに重要文化財に指定されている。 また来歴は不明であるが、法隆寺献納宝物の四十八体仏のひとつ、阿弥陀三尊像(整理番号144号・重要文化財)には「山田殿像」と刻銘されており、山田寺伝来の可能性が指摘されている。 この事件を機に山田寺は荒廃したようで、『多武峰略記』によると12世紀末には、堂塔、鐘楼、経蔵、僧房が跡地になっていたと記されている。
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