興福寺再興事業への参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 14:10 UTC 版)
治承4年(1180年)に平家の兵火により、奈良の東大寺・興福寺が焼亡する。興福寺の再興造像は、円派、院派と呼ばれる京都仏師と、康慶・運慶らの属する慶派の奈良仏師とが分担した。当時の中央造仏界での勢力にしたがい、円派・院派のほうが金堂・講堂のような主要堂塔の造像を担当することとなり、奈良仏師では運慶の父である康慶が南円堂の造仏を担当し、本家筋にあたる成朝は食堂(じきどう)の造仏を担当することとなった。
※この「興福寺再興事業への参加」の解説は、「運慶」の解説の一部です。
「興福寺再興事業への参加」を含む「運慶」の記事については、「運慶」の概要を参照ください。
- 興福寺再興事業への参加のページへのリンク