興福寺と畠山氏の下で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 02:53 UTC 版)
「二見氏 (大和国)」の記事における「興福寺と畠山氏の下で」の解説
元中9年/明徳3年(1392年)、南北両朝は合体。応永2年(1395年)より、興福寺一乗院門跡が宇智郡を領することとなったが、河内や紀伊の守護となった管領家畠山氏も宇智郡へ進出し、その勢力を及ぼしていた。こうした中で、二見氏は一乗院門跡から国民の称を与えられ、坊人へと起用されている。 応永16年(1407年)、畠山満家が宇智郡須恵庄を河内観心寺に寄進しており、宇智郡は畠山氏の守護領国に組み込まれたといえる状況となっていた。長禄4年(1460年)には畠山義就が宇智郡木原庄内の土地を観心寺に寄進するなど、宇智郡への進出度合を強めており、二見氏は興福寺一乗院と畠山氏に両属することとなった。 寛正5年(1464年)、二見氏と宇野氏の間で田地を巡る争いが起こっている。二見氏が宇野庄内部に作職を持っていたことによるが、興福寺衆徒であり幕府要人にも親しい成身院光宣がこれを調停し、二見氏の持つ作職と宇野氏が二見庄内に持つ作職を交換するという決定が出された。しかしこれに関しては宇野有治が不承知のままだったとみられる。
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