自治体としての歴史
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1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により南相馬郡我孫子町、湖北村、布佐町が誕生。我孫子町 ← 我孫子宿、我孫子村新田、下戸村、高野山村、青山村、柴崎村、岡発戸村、都部村、高野山新田、岡発戸村新田、都部村新田、都部新田 湖北村 ← 中里村、中峠村、新木村、古戸村、日秀村、中里村新田、新木村下、中峠村下、日秀村新田 布佐町 ← 布佐町、江蔵地新田、布佐下新田、浅間前新田、大作新田、相島新田、三河屋新田 1897年(明治30年)4月、東葛飾郡が南相馬郡を編入し東葛飾郡我孫子町、湖北村、布佐町になる。 1954年(昭和29年)11月1日 - 東葛飾郡富勢村の一部が我孫子町に編入(残部は東葛市〔現在の柏市〕へ編入)。 1955年(昭和30年)4月29日 - 我孫子町、湖北村、布佐町が合併し新制我孫子町が誕生。 1959年(昭和34年)- 手賀沼ディズニーランド構想が持ち上がるが白紙となる。 1970年(昭和45年)7月1日 - 市制施行により我孫子市が誕生。全国で565番目、県下で22番目。 2002年(平成14年)4月 - 平成の大合併の流れで周辺の柏市、沼南町と共に「柏市・我孫子市・沼南町まちづくり研究会」発足。 2002年(平成14年)12月 - 手賀沼、全国水質ワースト1を返上。 2003年(平成15年)2月 - 住民投票の結果などから「まちづくり研究会」を離脱、合併を白紙に。 2007年(平成19年)1月 - 福嶋浩彦の任期満了に伴う我孫子市長選挙で、星野順一郎が当選。 2011年(平成23年)3月 - 東北地方太平洋沖地震により布佐地区で液状化現象が発生し、市域134棟家屋全壊(内訳布佐113棟)。その原因、1870年の利根川の洪水により堤防が決壊してできた沼「切れ所沼」は1952年に利根川の浚渫土砂で埋め立てられて宅地化された。 2019年(平成31年)1月 - 星野順一郎の任期満了に伴う我孫子市長選挙で無所属現職の星野順一郎が当選 4選。投票率40.86%と、前回より8.34%上昇。 2019年(令和01年)6月1日 - 聖火リレーのルートが公表され、2020年(令和2年)7月4日に市内を通ることが決定。
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自治体としての歴史
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「中津川村 (鹿児島県)」の記事における「自治体としての歴史」の解説
薩摩郡大村のうち中津川地区は、間に黒木村を挟み、飛地を形成していた。大村役場からは近くとも8km、遠くは16km離れており、不便であるとして1920年代より分村の議論があり、1948年4月10日になって村議会で分村が議決され、同年12月27日の県議会議決を経て、1949年2月1日に中津川村として発足した。当時の人口は2,745人、戸数は469戸、主産業は農林業であった。 昭和の大合併では適正規模とされる人口12,000人をはるかに下回っていたため、鹿児島県は同様に適正規模を下回っていた求名村(約4,200人)・永野村(約4,300人)との合併案を提示、これに従い1954年12月1日に3村が新設合併し薩摩町が発足し、中津川村としての5年の歴史に幕を下ろした。町役場は新町のほぼ中央にあたる宮之城線広橋駅(旧求名村、1987年廃止)付近におかれた。なお、薩摩町は2005年に宮之城町・鶴田町と合併し、さつま町の一部となった。
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