自殺・死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 07:21 UTC 版)
1934年(昭和9年)2月、佐藤は「テニスファン」記者の岡田早苗との婚約を発表した。この年の3月20日、デビスカップの日本チームの主将として、箱根丸でヨーロッパ遠征に出発するが、その途上にあった4月5日にマラッカ海峡にて投身自殺を図った。26歳没。箱根丸の佐藤の船室には、シンガポールに着く前日に書かれた、用紙3枚の遺書が残されていた。日本テニス協会の前身である当時の日本庭球協会の堀田正恒会長に宛てた内容で、久保圭之助が作成したとみられる資料の中から2016年に発見。慢性の胃腸病を患い、集中できず国の期待に応えることができない精神的苦痛を「とてもテニスが出来ません」と明かし、日本代表を引率した自身を「この醜態さ、何と日本帝国に対して謝ってよいか分かりません。その罪、死以上だと思います」と責め、「私は死以上のことは出来ません。生前お世話様になった同胞各位に礼を述べ、卑怯の罪を許されんことを請う。では、さよなら」と結んでいる。 ペリーやクロフォードなど、当時の男子テニス界の頂点にあった選手たちと互角に戦ってきた佐藤の突然の死は、世界のテニスファンにも大きな衝撃を与えた。フランスでは、悲報を聞いた婚約者で女子テニス選手の岡田早苗の写真とともに新聞の第一面で報じられ、ニューヨーク・タイムズ紙も佐藤の競技写真付きで「有名なスター選手の自殺」と報じた。5月6日、早稲田大学のテニスコートで日本庭球協会主催の慰霊祭が開かれた。佐藤はテニスについて「庭球は人を生かす戦争だ」という持論を語っていた。オーストラリアのテニス・ジャーナリスト、ブルース・マシューズは自著『ゲーム・セット・栄冠-オーストラリア・テニス選手権の歴史』(全豪オープンの歴史書)の20ページで、「当時の観客は(佐藤の試合を通して)生死をかけた闘いを見ていることに気づかなかった。(今となっては)探り得ない佐藤の心は(5度の準決勝敗退を)天皇と日本国民を失望させる、耐え難い屈辱とみなした」と述べている。 佐藤の母校の群馬県立渋川高等学校には、佐藤の胸像が建立されている。また佐藤の故郷である渋川市では佐藤の偉業を記念し、渋川市総合公園庭球場にて毎年9月に『佐藤次郎杯ソフトテニス大会』が開催されている。 四大大会での四強入5回と四大大会シングルス32勝は日本テニス史上の最多記録であり、日本人男子の四大大会シングルスにおけるベスト4自体も1933年ウィンブルドンでの佐藤以来長らく途絶えたままだったが、2014年8月28日、全米オープンで錦織圭が3回戦に進出し佐藤が持っていた四大大会シングルス32勝の記録を塗り替える33勝目を挙げ、9月3日には同大会で準決勝および佐藤以来81年ぶりとなる四強進出を果たし、更に決勝戦に進出して日本人テニス選手初となる四大大会準優勝を果たした。
※この「自殺・死後」の解説は、「佐藤次郎」の解説の一部です。
「自殺・死後」を含む「佐藤次郎」の記事については、「佐藤次郎」の概要を参照ください。
- 自殺・死後のページへのリンク