雍正帝
(胤禛 から転送)
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雍正帝(ようせいてい)は、清の第5代皇帝。諱は胤禛(いんしん。しん:示+眞)、廟号は世宗、諡号は憲皇帝(temgetulehe hūwangdi)。在世時の元号を取って雍正帝と呼ばれる。
注釈
- ^ 実際の満洲語で犬は「indahūn」、豚は「ulgiyan」であり、また満洲人は動物の名称を名前に使用することは珍しくないこともありアキナを犬、サスヘを豚としたのは後世での何らかの意訳と思われる。康熙帝九男の息子たちは長男:フシフン fusihūn(卑しい者)、次男:フェチュフン fecuhun(後ろめたい人)、三男:ウビヤダ ubiyada(憎むべき者)、四男:エイメデ eimede(嫌なヤツ)、五男:ハイラン hairan(残念な人)、六男:ドゥンキ dungki(愚か者)、七男:ドゥシヒイェン dusihiyen(馬鹿)、八男:エイフン eihun(愚鈍蒙昧)と改名させられている。
- ^ 「維」と「止」の上にそれぞれ、「なべぶた」と「一」をつけると「雍」「正」になる、つまりこの一節は雍正帝の頭を切り落とし、さらに二文字を「民所」で離して、雍正帝の胴を二つに裂いているのだという。
- ^ a b c d 即位前に没した側室たちと思われる。
出典
- ^ "daicing gurun i šidzung temgetulehe hūwangdi i enduringge tacihiyan (大清世宗憲皇帝聖訓)"1740. [1]
- ^ 黄錫惠「清世宗諡宝之満文篆字研究」
- ^ 宮崎(1950)(宮崎(1996)pp.36、44-46、55-56)
- ^ 宮崎(1950)(宮崎(1996)p.158)
- ^ 孟子曰:「舜生於諸馮,遷於負夏,卒於鳴條,東夷之人也。文王生於岐周,卒於畢郢,西夷之人也。地之相去也,千有餘里;世之相後也,千有餘歲。得志行乎中國,若合符節。先聖後聖,其揆一也。」 — 孟子、離婁下
- ^ 杉山清彦. “第8回 「中華」の世界観と「正統」の歴史” (PDF). 「正統」の歴史と「王統」の歴史 (東京大学教養学部): p. 6. オリジナルの2016年9月10日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b 王徳威 (2020年3月16日). “基調講演記録 華夷の変 ―華語語系研究の新しいビジョン―”. 愛知大学国際問題研究所紀要 = JOURNAL OF INTERNATIONAL AFFAIRS (155) (愛知大学国際問題研究所): p. 10-11
- ^ 宋成有 (2010年). “古代中国文化の日本における伝播と変容” (PDF). 日中歴史共同研究報告書 (日中歴史共同研究): p. 114. オリジナルの2021年10月8日時点におけるアーカイブ。
- ^ 韓東育 (2018年9月). “清朝の「非漢民族世界」における「大中華」の表現 : 『大義覚迷録』から『清帝遜位詔書』まで”. 北東アジア研究 = Shimane journal of North East Asian research (別冊4) (島根県立大学北東アジア地域研究センター): p. 17
- ^ 宮崎, 市定 (1996-5). “七. 独裁政治の限界”. 雍正帝 -中国の独裁君主-. 中央公論新社. pp. 177-178
- ^ 雑誌「中央公論」1989年8月「中国を叱る」より
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