三世の春と離宮の数々と北京
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:25 UTC 版)
「北京の歴史」の記事における「三世の春と離宮の数々と北京」の解説
「円明園」および「頤和園」を参照 ホンタイジの死後、その跡を継いだ第三代皇帝・順治帝は南明帝国を壊滅に追い込み、南方を平定し、真の中国統一を成し遂げた。また、その跡を継いだ康煕・雍正・乾隆の三名君の三代にかけて、清帝国は今までにないほどの繁栄、いわゆる「三世の春」の時代となり、清帝国は繁栄の時を謳歌した。その時代に、北京には数々の皇帝の離宮が建造された。これらの巨額の資金をつぎ込んだ離宮は「三山五園」と呼ばれ、その中でも特に著名なのが円明園と頤和園であった。 円明園は1709年(康熙48年)、4代清帝国皇帝康熙帝が、皇子の胤禛[疑問点 – ノート](後の雍正帝)に下賜した庭園と宮殿がその起源である。胤禛が皇帝に即位(1722年、雍正1年)して以降様々な建物が増築され、庭園も拡張された。[疑問点 – ノート] また、乾隆帝の時代には、円明園の東に長春園、南東に綺春園(のちに万春園と改称)が設けられ、この円明園、長春園、綺春園を総称して、広義の円明園とな[疑問点 – ノート]った。長春園の北側には、イエズス会士のブノワ、カステリオーネらが設計にかかわった噴水が設けられ、[疑問点 – ノート]「ヴェルサイユ宮殿にも負けないような宮殿」を望む乾隆帝の望みにこたえて西洋風の建物・西洋楼も建てられた[疑問点 – ノート](これらの建物は、後に八カ国連合軍によって徹底的に破壊された)。また、嘉慶帝の時代にも大規模な修築が行われ、揚州から最高級の建具が取り寄せられた。そして、文源閣には四庫全書の正本が収められた。[疑問点 – ノート]その壮麗さは、イエズス会を通じて遠くヨーロッパまで届くほどであったという。 頤和園は乾隆帝が母后の60歳を祝う目的で建造され、江南風の壮大な庭園もあった。頤和園の前身は「清漪園」[疑問点 – ノート]と呼ばれた庭園であり、明の離宮後に1750年、乾隆帝は西湖掘削と西山・玉泉山・寿安山の造営、更に西湖・高水湖及び養水湖を貯水池することを命じ、[疑問点 – ノート]昆明湖を掘削し、甕山を万寿山と改称[疑問点 – ノート]するなどの事業を行い、1764年には洋銀480余万両の費用を費やした清漪園が完成[疑問点 – ノート]することとなった。 また、1884年から1895年(光緒9年から20年)にかけて西太后の隠居後の居所とすべく光緒帝の名により清漪園の再建が命令され[疑問点 – ノート]、今に残る豪奢な離宮が建造される事と成った。その後庭園は再建され頤和園と改称[疑問点 – ノート]されて離宮という位置づけとなり、西太后の「避暑地」として利用された。しかし、実際には自身の住居として使用した。
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