耕地整理と揚水機場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 05:11 UTC 版)
「山武郡東部連合耕地整理組合」の記事における「耕地整理と揚水機場」の解説
それまでの開発は人手に頼る開発であったが、明治維新後には機械を使うことが可能となった。大政奉還直後、徳川家達静岡移封に伴い当地に封じられた太田資美の松尾藩によって鳥喰沼の干拓が企図されたが果せなかった。 それから40年を経て、1911年(明治44年)に設立された当組合による干拓は成功裏に終わる。5万石の大藩をもってもできなかった事業が、農民の共同体でしかない当組合によって成功したということには意義深いものがある。なお。組合設立の前年には明治43年の大水害が発生して徳川幕府や明治政府の強権のもと維持されてきた中条堤を要とする利根川の治水システムが崩壊、北側の佐原町一帯では水害の被害が深刻化していた。 当組合は耕地整理組合であり、それまでは大きさも形状もまちまちであった水田を、1反歩(10アール)の長方形に区画し直し、農業機械の導入を容易にし、併せて用水路の整備を行うことを目的として設立されたものである。横芝町横芝、同鳥喰、同上鳥喰、同下鳥喰、同鳥喰新田、同栗山、松尾町八田、同猿尾、同大堤、同田越、同祝田、同五反田、同水深、同本水深、大平村本柏、同高富、同木刀、同武野里、上堺村新島、同北清水、同屋形、蓮沼村の耕地その他2540町8反1畝12歩、国有地188町3反2畝29歩、合計2729町1反3畝1歩を一区画として組合を組織し、事業区域内に近隣の水田の灌漑に供されていた鳥喰沼があったことから沼の干拓を行い、そして灌漑のため横芝堰を改修、揚水機場を設置し用水事業も行った。1911年(明治44年)12月22日設立、工事に着手したのは1912年(明治45年)3月2日である。 汽罐の種類 ランカシャー型 2臺 罐胴の徑 6尺6寸 罐胴の全長 27尺 觸火面積 450 火爐面積 30平方尺 常用汽壓 110封度 汽機の種類 横置タンヂム複式凝縮機関 汽筒の徑 高壓17吋 低壓28吋 1分間の回轉數 200回 圖示馬力 350馬力 喞筒の種類 井口式渦巻喞筒 吸込の種類 ダブルサクション 口徑 30吋 揚水管徑 37.5吋 1分間の回轉數 200回 揚程(干拓時) 20尺 揚水量(干拓時)1分間に付き 4490立法尺 揚程(灌漑) 19尺9寸乃至21尺3寸 揚水量(灌漑) 毎秒 50立法尺前後、2臺運轉の場合は 75立法尺 はじめ、蒸気機関と揚水ポンプにより鳥喰沼の水を栗山川に排出して干拓を行い、1913年(大正2年)からは事業区域の水田の灌漑に供された。最近の高級乗用車にも劣る350馬力のエンジンによる揚水であったが、それでも効果は絶大であった。1913年(大正2年)と1914年(大正3年)の両年の旱魃は近年稀なものであり郡の内外を問わず被害を被ったが、当組合の地域は灌漑によって被害を免れた。1913年(大正2年)の減収を免れた額を概算すると11万7千684円となり、揚水機の設備費4万8千987円42銭と大正2年の経常費7千971円36銭を差し引いても、6万725円22銭の利益が得られたことになり、早くもその威力を発揮した。
※この「耕地整理と揚水機場」の解説は、「山武郡東部連合耕地整理組合」の解説の一部です。
「耕地整理と揚水機場」を含む「山武郡東部連合耕地整理組合」の記事については、「山武郡東部連合耕地整理組合」の概要を参照ください。
- 耕地整理と揚水機場のページへのリンク