美津濃グライダー製作所において
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「島本真」の記事における「美津濃グライダー製作所において」の解説
1941年(昭和16年)1月26日、日本の滑空史を彩る滑空機日本記録が、生駒山山頂から相次いで打ち立てられた。その現場に支援者として参加した美津濃グライダー製作所所属の島本真は、ある意味で記録達成の立役者だった。島本はその所属で常国隆二級滑空士のサポート隊の一員として、滑空機記録達成のため働いていたがその時、時を同じくして美津濃グライダー製作所所属の作業員ながら大阪飛行少年団教官金光漢二級滑空士が操縦し、東洋金属木工のアカシア式巻雲一型機で、新記録に挑戦しようとしていたグループがあった。 朝鮮半島出身の金光漢は、日本人からの差別の目を感じながら、不屈の闘争心で記録達成に挑戦しようとしていた。彼のまわりには同じ美津濃所属の同僚、大阪飛行少年団有志、堺水上飛行学校の友人達が、朝鮮半島出身の友人と共に、彼が搭乗する滑空機の調達、修理、飛行訓練、記録挑戦のための生駒山での支援サポート隊と、金光漢への日本人の多数の協力者があったことも事実だった。 午後7時25分、常国隆二滑空士操縦の美津濃301型ソアラーは発航した。この時、金光漢のサポート隊は大変な問題に遭遇、その解決は絶望的だった。生駒山という地の利を得て最適の風を捕らえるため季節を選び周到に用意されたはずの準備に、致命的見落としがあった。 生駒山上まで機体を運び、同じホテルに滞在し同じ美津濃の従業員が2つのグループに別れ、それぞれの機体を点検整備して準備を終えたあとに金光漢グループの大阪飛行少年団学生、林が発航に必要なゴム索を忘れてきたと報告した。この機会を逃せばいつ発航に適した気象配置と風が得られるかわからず、同じく日本記録を狙う美津濃、常国グループからゴム索を借りることは到底出来ない相談であることは金光漢には解りすぎるほど解っていた。責任を感じた大阪飛行少年団林学生は、この事を美津濃グライダー製作所所属の島本に相談し、ゴム索貸与を申し入れた。島本は滑空機の記録挑戦においてもスポーツマンシップにのっとりフェアーに戦いたいとの考えで、ゴム索貸与に同意、金光漢の巻雲1型機は、美津濃グループのゴム索により、常国滑空士搭乗の美津濃301型ソアラーの発航後約50分遅れで、無事発航した。常国隆二級滑空士は午後5時55分盾津に着陸10時間33分30秒の滑空機滞空日本新記録を達成。その僅か2時間ほど後、午後7時50分金光漢による11時間40分の日本新記録で記録を塗り替えられる。しかし、常国隆二級滑空士も、獲得高度3,600mの未公認ながら立派な日本新記録を残した。 金光漢の達成した記録は、島本のゴム索貸与抜きには実現できず、満16歳の島本にその権限があったとも考えられない。独断とも言えるこのゴム索貸与は、明らかに美津濃グライダー製作所の考えと食い違っていた。この事に付いて島本は何も語らなかったが、平成になり滑空史保存協会河辺新一の取材に、後に美津濃を辞めた原因の一つであったと重い口を開いた。同年、美津濃グライダー製作所を退社し、数ヶ月の前田航研派遣の後に大阪毎日新聞航空部に入社した。 美津濃在籍時の操縦指導・記録挑戦・思わぬ出来事 生駒山で行われた滑空士操縦訓練で、真は父と兄弟に指導、毎日新聞のニュースに取り上げられた 島本と吉川滑空士、滑空訓練に機体と共に登山。パラシュートを背負う島本 生駒山の滑空訓練時の写真が梅田阪急百貨店1階のショーウインドーにポスターとして張られた
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