編著者・久米邦武
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 02:45 UTC 版)
久米邦武は、佐賀藩士・久米邦郷の三男として生まれ、佐賀藩校の弘道館に学び、そこで大隈重信とも親交している。久米の博覧強記ぶりは、漢籍、儒書、史書や『坤輿図識』(箕作省吾)など和漢の世界地図書に親しんだ基本的知識のほかに、藩主鍋島直正の近習として勤めた経験にある。直正は早くから西洋文化に興味を抱き、唯一オランダ船に乗り込んだ大名で、藩内に製錬方を設け反射炉を建設して日本初の鉄製大砲の製造に成功し、幕府の台場用大砲の製造を引き受け、巨艦建造の軍港を設けて、国産初の木造外輪船を建造するなど多くの西洋技術を導入した。それらの技術に関する質問に答えるため近習として仕え、加えて唐鑑会と称する「唐鑑」の書の輪講を藩主と家臣が分け隔てなく議論し合う場に参与し、柔軟多様な発想を持つ事で鍛えられた。 また父・邦郷は、佐賀藩・山方として鉱山・石炭の管理を、目安方で藩の会計を、長崎聞役で大砲、軍艦の購入や藩特産品の輸出に関わり、有田皿山代官として有田焼の生産・輸出取締りの専売に関与し、江戸、京都、大坂、堺、兵庫、長崎の藩支所を監督、大阪蔵屋敷詰でコメの販売管理を担当し、最後には御側頭として藩主の側近としても仕えた広範囲にわたる知見を持った幹部藩士であった。久米は、藩主と父親からジェネラリストとして柔軟な目で物事を見るリアリストの才能を鍛えられ、岩倉使節団の一員になったのも、岩倉具視が出帆直前に閑叟から以前聞いた久米の有能さを見出し、側近としての報告係に選んだ経緯がある。岩倉具視は維新後、息子3人の教育を佐賀藩に託するほどの親密な関係を持った。
※この「編著者・久米邦武」の解説は、「米欧回覧実記」の解説の一部です。
「編著者・久米邦武」を含む「米欧回覧実記」の記事については、「米欧回覧実記」の概要を参照ください。
- 編著者・久米邦武のページへのリンク