経歴および第一相互経済研究所設立の経緯
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1926年(大正15年)6月15日、本籍のある熊本県上益城郡甲佐町で内村家次男として生まれる。1941年(昭和16年)4月、地元の白旗尋常小学校から旧制熊本県立御船中学校に進学するも中退し、1943年(昭和18年)4月に旧海軍甲種予科練習生として鹿児島海軍航空隊に入隊。特攻隊戦闘機搭乗員となり、終戦と共に本籍地のある甲佐町に復員。1947年(昭和22年)9月に第一生命保険相互会社熊本支店に保険外交員として勤務するようになる。勤務の傍ら、1950年(昭和25年)10月から、当時の自宅に隣接した建物で特殊飲食店を妻に経営させ、1957年(昭和32年)4月に売春防止法が施行されてからは、それを旅館に切り替えて、更に1965年(昭和40年)11月食堂に転業し経営させたりしていたが、家族の生活費は専ら健一の保険外交員としての収入等によって賄っていた。1966年夏、糖尿病のため入院療養していた際、妻から、妻の加入している誠相互経済協力会(札幌市所在)の会員勧誘パンフレットを見せられ、同会の仕組みに感心すると共に、同会会員となるよりも自ら同種の会を設立し、経営した方が利益が多大になると考え、協力会パンフレットの内容にヒントを得て、退院後、独自に「親しき友の会」の仕組みを考案して、1967年(昭和42年)3月、甲佐町にあった自宅の2階を改造して事務所にあて「第一相互経済研究所(第一相研)」の名称で「親しき友の会」の事業を開始し、自ら親戚、知己を勧誘し、「親しき友の会」の初代親会員(いわゆるトップ会員)9名を作った他、会員募集を自ら行い、家族には事務的な仕事を手伝わせ、第一相研の所長として第一相研を主宰し、「親しき友の会」の運営にあたっていた。しかし、同年7月には前記勤務先の保険会社の上司から第一相研の名称を変更するように要求されたことや会員数も増加して事務量も増大したことなどから、勤務していた保険外交員を辞め、以後、第一相研の事業に専念し、1970年(昭和45年)12月、「中小企業相互経済協力会」発足の頃から、第一相研を「天下一家の会」とも呼ぶようになり、更に同会会長の肩書を付するようになった。
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