紙屋川と秦氏とは? わかりやすく解説

紙屋(かんや)川と秦氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/26 03:43 UTC 版)

唐紙」の記事における「紙屋(かんや)川と秦氏」の解説

京都西北連なるケ峰、ケ峰、釈迦谷山などの山稜から一筋の川が流れている。南下して北野天満宮平野神社の間を抜けて西流してやがて御室川合流し再び南下して桂川に注ぐ。この流れ紙屋(かんや)川と呼ぶ。 紙屋川と呼ぶのは、平安時代初期図書寮直轄官営紙漉き場の紙屋院がこの川のほとり設けられたからである。紙屋院置かれていた位置明確な記録はないが、『擁州府誌(ようしゆうふし)』には、「北野の南に宿紙しゅくしあり、古この川において宿紙製す故に紙屋川と号す。」とある。 『日本紙業史・京都篇』によっても、北野天満宮あたりの紙屋川のほとりにあったことは確かである。官営紙漉きであった紙屋院は、平安時代製紙技術センターであり、当時の最高の技術で紙を漉き地方での紙漉き技術指導行った『源氏物語』には、「うるわし紙屋紙」と表現し、またその色紙を「色はなやかなる」と讃えている。紙屋院設けられる前の奈良時代にも図書寮製紙担当していた。 『令集解』には、紙戸五〇戸を山代国(山城国・現京都)に置いた記録している。山城国特定したのは、古代における最大技術者渡来集団といえる秦氏勢力を張っていた拠点であったからである。 秦氏渡来当初は、現在の奈良県御所市あたりにヤマト政権より土地与えられている。のちに主流山城国移り土木農耕技術によって嵯峨野開墾開拓し機織り木工金工などの技術者多く抱えて技術者集団をなしていた。 機織り技術者がいたことから、当然当時衣料原料である麻や繊維から製糸する技術者もいた。製糸技術は、麻や靱皮(じんぴ)繊維利用することでは、製紙類似技術であり、原料処理工程は殆ど一緒であり、繊維紡ぐか、繊維漉くかの、まさに紙一重違いしかない。すでに原始的な紙漉き技術を、持っていた可能性もある。 このような技術的な基盤のもとに、平城京政権は、山城国山代国)に紙戸(官に委託され紙漉き場)を置いた飛鳥時代宮廷官衙物資調達任じたのが部で、秦大津父大蔵掾任じられ聖徳太子蔵人となった秦河勝京都太秦峰岡寺(後の広隆寺)を造営している。 秦忌寸朝元は天平11年739年)に図書頭任じられている。平安時代に入ると、秦公室成は弘仁2年811年)、図書寮造紙(ぞうし)長上であった秦部乙足に替わって図書寮造紙長上任命されている。秦氏は、このように古くから、造紙関係の要職深くつながっていた。秦氏のような技術者基盤の上製紙国産化が行われ、山城国製紙先進技術誇り和紙技術センター役割担ったが、紙の需要が高まるにつれ、原料の麻や地方に頼らざるを得なくなった。 紙の需要が高まるにつれ、皮肉なことに律令制度緩みがでて、紙の原料供給細ってしまった。紙屋院技術指導によって、各地紙漉き盛んになり、律令制度統制力弱体化とも相まって紙屋院原料調達思わしくなくなったこのような経緯で、紙屋院反故紙集めて漉き返し宿紙漉くようになった。 のちに、紙屋紙宿紙代名詞とも成り、のちに堺で湊紙江戸で浅草紙という宿紙が漉かれるようになってから、京都宿紙西洞院紙と呼ばれるようになった

※この「紙屋(かんや)川と秦氏」の解説は、「唐紙」の解説の一部です。
「紙屋(かんや)川と秦氏」を含む「唐紙」の記事については、「唐紙」の概要を参照ください。

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