糖類添加酒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:39 UTC 版)
1942年(昭和17年)、満州ではさらに酒造用の原料米の割り当てが減らされたが、一方で清酒の需要が益々増してきたので、アルコールをもっと多量に入れて増量する必要に迫られた。そうなると四段添加では甘味が追いつかないため、糖類を直接添加するという方法が満州国経済部試験室で考案された。これは、既に実用化されていた合成清酒を参考にしたものである。試験醸造は、第一回が奉天(現在の瀋陽市)の『千福』満州千福醸造と『千代の春』千代乃春酒造、第二回が開原の『源氏』東洋醸造の、計2回に分けて行われた。第一回目には、白米10石の醪に対して30度のアルコールを15石まで加えて、アルコール度数21~23度の約30石の清酒を得た。第二回目には、白米10石の醪に対して25度のアルコールを30石まで加えて、アルコール度数21~23度の約45石の清酒を得た。これを満州では「第二次酒」また「第二次増産酒」とも呼ばれた。この結果にもとづいて1943年(昭和18年)9月に満州の主要な酒造場から技師・杜氏を集めて清酒技術会議を開いて討論会を行い、議論百出したが酒不足・原料米不足の折から、関東軍倉庫部隊長の生地大佐の決断により、1943年(昭和18年)の冬から第二次酒を製造することになった。酒造用米は極端に減らされたが第一次酒・第二次酒を採用したため製造石数はさほど減石せずにすみ、各酒造場の製造能力を十分に発揮し、満州国政府の酒税収入もさほど減らなかったため、長島長治、菊地敬、佐藤友清の3技師が政府より表彰された。 満州で実用化された標準的な手法では、白米10石の醪に対して、純度75%以上のブドウ糖 130~150kg と 75%の醸造用乳酸 6kg を溶解した16石の調味アルコール(アルコール度数約 24.8%)を加えて、市販酒としては従来の(アルコール添加をしない)清酒の約2.5倍の増量となった。また、乳酸が不足したため一部ではクエン酸も使用した。 満州では以上の方法により、1943年(昭和18年)・1944年(昭和19年)と終戦まで糖類添加酒の製造を行った。いっぽう、内地では敗戦後の酒造用米不足の打開策として、日本酒造協会の副会長でもあった『大関』長部商店の長部文治郎社長が、鞍山市の満州大関にあった自社工場にて醸造した第二次酒の製造法を発表したことを契機にして、1949年(昭和24年)に全国150の酒造場で試験醸造が行われた。このとき、市販酒としては従来の(アルコール添加をしない)清酒の約3倍の増量となったため、「三倍増醸清酒」と呼ばれるようになった。その結果、翌1950年(昭和25年)より全国的に三倍増醸酒が製造されるようになった。
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