第9師団の転出
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1944年10月にフィリピンでレイテ島の戦いが起きると、状況は変わった。レイテ島の戦いに先立つ台湾沖航空戦で日本海軍が誤報した連合国空母多数撃沈の過大戦果を前提に、大本営は捷一号作戦(フィリピン決戦)を決意し、レイテ島への戦力増派に進んだ。大本営は沖縄から1個師団、姫路から1個師団、朝鮮から1個師団、満州から1個師団、台湾から1個師団の合計5個師団のレイテ投入を考え、第32軍に「第32軍より、1兵団を比島(フィリピン)方面に転用することに関し、協議したきにつき、八原大佐を11月3日夕刻まで台北に参集せしめられたし」という電文を打った。受け取った第32軍は激高し、八原が作成し牛島が裁可した「沖縄から1兵団を抽出されたら、沖縄の防衛に責任は持てない」「抽出するなら宮古島の第28師団であれば可」「沖縄より1個師団抽出し他から1個師団を沖縄に補充する計画なら、その師団を直接比島に増派すべき」「沖縄から1個師団を抽出されるぐらいなら、むしろ第32軍主力が国軍の決戦場比島にはせ参じることを希望する」という返答を準備し、1944年11月3日に台北の第10方面軍司令部で開催された、大本営、第10方面軍、第32軍の会議に八原を出席させた。 会議ではまず最精鋭の第10師団のフィリピン転出を打診されている第10方面軍の市川参謀が「台湾軍は既に1個師団引き抜かれており、さらに第10師団まで持っていかれたのでは、後に残るのは2流師団3個だけで、これでは戦えない。沖縄と比較して台湾は広大であるから、沖縄から1個師団引き抜くと言うなら台湾にいただきたい。」と意見を述べた。市川の次に八原は持参した返答を読み上げたが、その後は長から台湾への出発前に「黙っているのが最上」と訓示された通り、何の意見も言わなかった。この会議に大本営から出席した服部卓四郎第2作戦課長は、姫路の第84師団をフィリピンではなく、1個師団を抽出された後の沖縄に転用する腹案を持っていたが、八原ら第32軍の大本営の方針を一笑し一蹴する意見具申にその腹案を提示することもできず、また八原の態度で会議の場も気まずい抗立の空気のまま、何ら結論を出すことなく散開となった。 台北会議後の1944年11月11日に、まず中迫撃第5、第6大隊(15cm迫撃砲24門)がフィリピン方面へ転用が命じられ、軍砲兵隊による橋頭堡殲滅射撃の構想に大きな影響を及ぼした。その後の11月13日、大本営から「沖縄島に在る兵団中、最精鋭の1兵団を抽出するに決せり。その兵団の選択は軍司令官に一任す。」という命令が届いた。八原は自分が作成した意見書が全く考慮されなかったことに激しい憤りを覚えたが、牛島と長は冷静に受け入れ、八原は不承不承、抽出する師団の選定を行った。沖縄の精鋭師団は第9師団と第24師団のいずれかであったが、第9師団は日清戦争・日露戦争でも活躍した歴史のある師団で、よく訓練行き届いた精鋭師団ながら山砲師団で、新設師団で兵士の訓練度では劣るものの野砲師団で四年式十五糎榴弾砲まで装備していた第24師団の方が砲火力が勝っていたため、八原は第24師団を残すこととし、第9師団を「最精鋭師団」として軍から手離すという意見書を作成した。八原の意見書に基づき、第9師団が1944年12月中旬から翌1945年1月中旬にかけて台湾へ移動し、第32軍は兵力の三分の一近くを失った。第9師団は、台北会議での第10方面軍の要望通り、フィリピンに転用された第10師団の代わりに台湾に配置されることとなり、そのまま終戦を迎えることとなった。 このような配置転換の最中に沖縄県営鉄道輸送弾薬爆発事故が発生し、多くの人命とともに大量の弾薬・物資を失う悲劇に見舞われている。
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