第8、第9、第10、第11、第12の哨戒 1944年3月 - 1945年4月
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「グルーパー (潜水艦)」の記事における「第8、第9、第10、第11、第12の哨戒 1944年3月 - 1945年4月」の解説
3月1日、グルーパーは8回目の哨戒でルソン海峡方面に向かった。3月29日以降、バシー海峡および高雄と香港間の交通路を哨戒したが、4月10日に北緯21度03分 東経118度49分 / 北緯21.050度 東経118.817度 / 21.050; 118.817の地点で発見した輸送船団はスコールに遮られ、この哨戒における戦果はなかった。4月28日、グルーパーは59日間の行動を終えてマジュロに帰投した。 5月22日、グルーパーは9回目の哨戒でホエール (USS Whale, SS-239)、パンパニト(USS Pampanito, SS-383)およびバットフィッシュ(USS Batfish, SS-310)とウルフパックを構成し日本近海に向かった。ウルフパックは豊後水道で哨戒し、6月13日には北緯32度42分 東経133度57分 / 北緯32.700度 東経133.950度 / 32.700; 133.950の地点で氷川丸を確認する。6月19日のマリアナ沖海戦直後、海戦に完敗した小沢治三郎中将率いる第一機動艦隊の残存艦がこの方面を通るということで警戒をしていたが、グルーパーは6月18日に潮岬方面へ移動を開始しており、結局第一機動艦隊への攻撃はなかった。6月24日未明、グルーパーは北緯34度45分 東経139度30分 / 北緯34.750度 東経139.500度 / 34.750; 139.500の伊豆大島波浮灯台の南東43キロの地点で、父島から横須賀に向かっていた第4620乙船団を発見して浮上攻撃。海軍徴傭船熊野山丸(三井船舶、2,857トン)の見張り員は浮上したグルーパーを明かりをつけた漁船と一瞬見誤った。グルーパーからの魚雷は熊野山丸の右舷に命中し、熊野山丸は1時ごろに沈没した。7月10日、グルーパーは50日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。 8月14日、グルーパーは10回目の哨戒でパラオ方面に向かった。マジュロを経由し、パラオ近海に到着。グルーパーは同海域で数度の空襲を受けたが、これに耐え、7人の撃墜されたパイロットを救助した。グルーパーは10月6日にサイパン島に寄港した後、10月15日に62日間の行動を終えてマジュロに帰投した。 11月9日、グルーパーは11回目の哨戒で日本近海に向かった。小笠原諸島方面で哨戒し、同時に東京を空襲するB-29に対する支援任務も兼ねた。11月28日、グルーパーは北緯30度22分 東経142度02分 / 北緯30.367度 東経142.033度 / 30.367; 142.033の地点で2隻の武装トロール船に対して魚雷を3本発射する。しかし魚雷は全て外れ、グルーパーでは浮上砲戦を試みるが、浮上する前に爆雷攻撃を受けて攻撃をあきらめた。1945年1月1日、グルーパーは54日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。整備後、グルーパーはサイパン島に回航された。 3月3日、グルーパーは12回目の哨戒で東シナ海に向かった。九州西方宇治群島近海で哨戒したが、3月27日に北緯31度08分 東経125度36分 / 北緯31.133度 東経125.600度 / 31.133; 125.600の地点で病院船高砂丸(大阪商船、9,315トン)を目撃し、翌3月28日には北緯30度55分 東経125度26分 / 北緯30.917度 東経125.433度 / 30.917; 125.433の地点でサンパンを攻撃する。この2隻以外は接触もなかった。4月26日、グルーパーは54日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。翌日、グルーパーは2度目のオーバーホールのためサンフランシスコに回航された。グルーパーは8月6日に真珠湾に戻り、この後も哨戒任務が予定されていたが、戦争終結と共に任務は取り消された。
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