第2ベルリン時代
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「パウル・ゲルハルト」の記事における「第2ベルリン時代」の解説
1657年5月、ベルリン市ミッテ区にあるニコライ教会はパウル・ゲルハルトを副牧師に招聘することを決め、彼に通知した。その後、6月4日になってゲルハルトはこの招聘に同意した。6月22日に彼は最初の職務として幼児洗礼を授けた。この時期、彼は妻と一緒にベルリン、クロイツベルク区シュトララウアー通り38番地にある牧師館に住んだ。1613年、ブランデンブルク選帝侯 ヨーハン・ジギスムントはルター派教会から改革派教会に改宗した。しかし、選帝侯は改革派への改宗をブランデンブルクの領民には求めず、大半の住民はルター派にとどまった。このためブランデンブルク選帝侯領において領邦君主と領民の宗派が異なるという状況が生れた。1555年に成された決議アウクスブルクの和議において領邦君主の宗教選択権が保証され、領邦君主と領民の教派の統一がおこなわれていた。改宗後の ヨーハン・ジギスムントの宗教政策はこの決議から逸脱するものであった。しかしながら、再三再四、信仰告白をめぐる対立がブランデンブルク選帝侯領で生じた。1662年、フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯) は領民に向けてヴィッテンベルク大学での修学を禁止する布告を出している。当時のヴィッテンベルク大学がルター派正統主義の本拠地であったからである。同時期に「ベルリン宗教会議」を開催し招集したが1663年に成果を挙げないまま中断を余儀なくされた。 当時のブランデンブルク=プロイセン においてルター派神学者たちの不満がベルリンを中心に現れていた。ゲルハルトもその両派の論争に加わり、改革派教会との統合はシンクレティズムになると見なして、ルター派の立場を強く主張した。フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯) の政治にとって、ルター主義者たちの頑な姿勢は都合の良いものではなかった。フリードリヒ・ヴィルヘルム (ブランデンブルク選帝侯) はこの教派対立において選帝侯国の政治的安定が脅かされると見なし、1664年9月16日の「寛容勅令」を布告した。ルター主義の立場から見ると改革派教会の教説を含んだこの選帝侯の勅令は受け入れ難いものであった。彼らから見れば「寛容勅令」は、改革派教会と呼ばれる異端的な宗教の受容し、純粋なルター派信仰から逸脱したものであった。しかしながら、ブランデンブルク選帝侯は頑ななルター主義者たちに「寛容勅令」を受け入れた上で署名するように求め、署名を拒んだものは領邦教会(ブランデンブルク領邦教会の首長は選帝侯であり、領内の聖職者たちの人事権を握っていた)から罷免するとした。1666年1月31日、ゲルハルトも「寛容勅令」に署名するように求められた。他の多くのルター主義者たちと同様に、彼は署名を拒んで2月13日にニコライ教会牧師の職務から外された(牧師職という地位は維持していた)。ベルリン教区民たちはゲルハルトのニコライ教会牧師離職に賛成せず、「寛容勅令」に署名しなくても復職を可能にする請願書を選帝侯に提出し、ベルリン市参事会も同様に請願した。しかし、その市民たちによる請願書は選帝侯によって却下されてしまった。ゲルハルトはベルリン市外においても名声を得ていたので、マルク・ブランデンブルク地方の領邦等族たちもゲルハルトの人事問題に介入してきた。その後、1667年1月12日になって選帝侯は解職されたルター主義者たちの中でゲルハルトのみ復職を許した。しかし、ゲルハルトは信仰と道義上の理由からこの復職を拒んだ。そのため、1667年2月4日、選帝侯はゲルハルトを領邦教会の牧師職から解任した。それによって、ゲルハルトは収入を絶たれた。1666年において、パウル・ゲルハルトは翌1667年までに出版するため讃美歌集の小冊子を用意し始めた。これは1667年に最初の作品集として「霊的祈祷歌集」と名づけられて出版された。ベルリン・ニコライ教会の新カントールヨハン・ゲオルク・エーベリンクの編集によって、この讃美歌集は出版されている。この版はベルリンとフランクフルト・アン・デア・オーダーで出版された。この讃美歌集はゲルハルト作詞の120の賛美歌を含み、その中で26の賛美歌詞は新作であった。同時期、彼の妻アンナ・マリア1967年3月に死去している。
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