第2フェーズ:英国軍の攻勢(1900年1月から9月)
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「ボーア戦争」の記事における「第2フェーズ:英国軍の攻勢(1900年1月から9月)」の解説
更に英国軍は、レディスミスを攻略するためのスピオン・コップ (Spion Kop) の戦い(en)(1900年1月19日から24日)で再び敗れ、ビューラーは再度コレンゾーのツゲラ川西側を渡ろうとして、ボータ率いるボーア軍との激戦の末、1,000人の犠牲者を出した(この時のボーア軍側の犠牲者は約300人)(en)。ビューラーは2月5日に、Vaal Krantzで再びボータの軍を攻撃して(en)、今度も敗北する。 1900年2月14日に増援が到着するまで、ロバーツ卿指揮下の英国軍が駐屯軍を救い出すための反攻を開始することはできなかった。最終的にキンバリーは、2月15日にジョン・フレンチ将軍の騎兵部隊によって解放された。 パールデベルク (Paardeberg) の戦い(en)(1900年2月18日から27日)で、ロバーツ卿はついにボーア軍を打ち破り、クロンジェ将軍と4,000人の兵士を捕虜とした。これによりボーア軍は弱体化し、やっとのことで英国軍はレディスミス解放へと駒を進めることが可能となった。 マフェキング解放は、イギリス全土に熱狂的な祝賀を引き起こした(このお祭り騒ぎを表現するためにマフェック (maffic) という単語が作られたほど)。同年2月、イギリスは軍を再集結させると、西方から2つの共和国の攻略を開始し、3月13日にはオレンジ自由国の首都ブルームフォンテーンが陥落し、6月5日にはトランスヴァール共和国の首都プレトリアが占領された。 ほとんどの英国民は2つの首都占領によって、ほどなく終戦に至るだろうと考えていた。しかし、ボーア軍は新たな拠点Kroonstadで会合し、英国の供給網および通信網を寸断するゲリラ戦を立案した。 この新たな方針による最初の戦果は、3月31日、クリスチャン・デ・ウェット (Christian De Wet) が指揮する1,500人のボーア軍がSanna's Post(ブルームフォンテーンの東23マイルにある給水設備)において、英国軍が厳重に警護するキャラバンを待ち伏せし、155人の犠牲者、428人の捕虜、7丁の銃、117台のワゴンを捕獲したものであった。 最後の“フォーマルな”戦いは、ロバーツ卿がプレトリア近郊でボーア軍野戦兵の残党を攻撃した6月11日から12日のダイアモンド・ヒル (Diamond Hill) の戦い(en)であった。ロバーツ卿がダイアモンド・ヒルからのボーア軍の排除に成功したにもかかわらず、ボーア軍の指揮官ボータはそれを敗北と見なさなかった。何故ならボーア軍の犠牲者が約50人であったのに対し、英国軍は162人の犠牲者を出したからである。 こうして、“フォーマルな”戦争は終わりを告げ、戦争は新たなステージに移ることとなった。
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