第1次哨戒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 08:40 UTC 版)
「U195 (潜水艦)」の記事における「第1次哨戒」の解説
U-195はキールを1943年3月20日に出発し南アフリカ連邦沖の海域へ行き、そこまでで2隻を沈め、1隻に損傷を与えた 4月11日、北緯28度52分 西経26度30分 / 北緯28.867度 西経26.500度 / 28.867; -26.500のカナリア諸島ラス・パルマス・デ・グラン・カナリア西方475マイル(760km)地点付近で米リバティ船ジェームズ・W・デンヴァー(James W. Denver、7,200トン)を発見。ジェームズ・W・デンヴァーはニューヨークからカサブランカへ向かう輸送船団UGS-7に参加中、機関過熱により後落したもので、砂糖、酸、小麦粉、航空機部品、車両及びブルドーザー、計6,000トンを積んでいて、甲板上にはさらに12機のP-38 ライトニングを積んでいた。U-195は魚雷3本を発射し、うち1本が右舷2番船倉と3番船倉の間に命中。ジェームズ・W・デンヴァーは航行不能となり、右舷に傾斜。船首が水中に沈み、推進器が海上に出た。乗員42名、武装護衛隊員26名、乗客1名は5艘の救命ボートで脱出した。翌12日0120にジェームズ・W・デンヴァーは沈没した。 5月6日、南緯15度00分 西経7度00分 / 南緯15.000度 西経7.000度 / -15.000; -7.000のアセンション島南東125マイル(200km)地点付近で単独航行中の米リバティ船サミュエル・ジョーダン・カークウッド(Samuel Jordan Kirkwood、7,191トン)を発見。サミュエル・ジョーダン・カークウッドは空船でケープタウンからバイーアに向かっていた。U195は魚雷2本を発射したが、相手が12ノットでジグザグ航行していたため命中しなかった。U195はサミュエル・ジョーダン・カークウッドを追跡し、20時間後の翌7日0137に魚雷1本を発射。魚雷はサミュエル・ジョーダン・カークウッドの左舷5番船倉直後に命中。爆発により6m(20フィート)の穴が開き、変速機と推進軸が破壊され、船尾砲座が倒壊した。乗員42名、武装護衛隊員25名、乗客4名は4艘の救命ボートと1艘の救命いかだで脱出した。0352、U-195は放棄された後のサミュエル・ジョーダン・カークウッドへ魚雷を発射。魚雷が命中した同船は沈没した。 5月12日0313、南緯23度21分 西経1度22分 / 南緯23.350度 西経1.367度 / -23.350; -1.367の地点で、U-195は単独航行中の米C1型貨物船ケープ・ネディック(Cape Neddick、6,797トン)を発見した。ケープ・ネディックはダーバンからスエズに向かっており、食糧、弾薬、航空機部品、ジープ、戦車20両、計7,100トンを積んでいて、甲板上にはさらに機関車が積まれていた。U-195は魚雷2本を発射。1本は3番船倉後方に命中したが不発。もう1本は2番船倉に命中し縦7.6m(25フィート)横9.1m(30フィート)の穴を開けた。その最中に、乗船していた武装護衛隊員は100mm(4インチ)、76mm(3インチ)砲及び20mm機関砲でU-195へ向けて砲撃した。やがて、船首から沈み始め、甲板が波に洗われるようになったため、乗員51名、武装護衛隊員25名は2艘の救命ボートと3艘の救命いかだで船を離れた。その後、沈まなかったケープ・ネディックの船長と乗員6名により航行を開始。その時U-195は魚雷1本を発射したが、魚雷はケープ・ネディックの前方を通過した。そのため、砲座から砲弾3発がU-195の方向に向け発射された。15時間後、ケープ・ネディックは現場へ戻り救命ボート、救命いかだに乗った者たちを救助し、16日に南アフリカのウォルビスベイに無事到着した。U-195は126日間の哨戒の後、7月23日ボルドーに帰還した。
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