第1期ブルージーンズ
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「寺内タケシとブルージーンズ」の記事における「第1期ブルージーンズ」の解説
1962年、寺内が居た「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」が所属していた東京ハワイアンズが、寺内に新しいバンドを作らせるためにジミー時田が寺内を解雇する形でバンドを辞めさせ、寺内をリーダー、ほりまさゆきをヴォーカルに当時流行していたロカビリーのバンドを結成させたのが、「寺内タケシとブルージーンズ」であった。 結成時のメンバーは以下の通り。 寺内タケシ(ギター) 鈴木八郎(ピアノ) 冬梅邦光(テナーサックス) 堀直昭(ドラム) 有馬修(ウッドベース) ほりまさゆき(ヴォーカル) その後、事務所との音楽性の違いや事務所の経営悪化を機に渡辺プロダクションに買収される形で移籍、『シャボン玉ホリデー』『ザ・ヒットパレード』に出演し、1963年1月には日劇ウエスタンカーニバルで大ブレイク。しかしそんな矢先に、雇った振り付け師が指導した過激な演奏がたたりメンバーがステージから転落して重傷を負ったり、冬梅が口に大怪我を負ってサックスが吹けなくなるなど事故が相次いだ(共演したザ・ピーナッツの2人も捻挫をしたという)。寺内はこれらの事故を機に管楽器無しでメンバーを入れ替え、エレキバンド化を決心、フェンダーから6弦ベースを取り寄せ、ヤマハに自ら大学時代に書いた設計図(この設計図を機に寺内はヤマハに誘われたこともあったという)を持ち込んで日本初の電気ピアノを開発させ、自前のPAやエコーマシーンを用い、加瀬邦彦らを迎えて1964年頃には日本初のエレキバンドが完成した。 この頃のメンバーは以下の通りである。 寺内タケシ(リード・ギター) 加瀬邦彦(2ndリード・ギター) 市山正美(リズム・ギター) 石橋志郎(ベース) 工藤文雄(ドラム) 鈴木八郎(キーボード) エレキバンドとなったブルージーンズは1964年には新宿厚生年金会館で初のコンサートを開く。前座はベンチャーズとアストロノウツであった。さらに翌1965年はこの3バンドにザ・スパイダースを加えた4バンドで競演、日本中にエレキブームが巻き起こった。この頃、三根信宏をベースに誘うが断られている。さらにこの年には寺内が「世界三大ギタリスト」に選出されたり、多忙から実現が寺内脱退後までずれ込んでしまったが『エド・サリヴァン・ショー』から出演依頼が来るほどまでになり、スケジュールは完全に飽和状態であった。さらに12月31日の第16回NHK紅白歌合戦には彼らがバック演奏で参加した「遺憾に存じます」を歌った植木等と共に出場した。また、この頃には日本にリヴァプール・サウンドを広めるためイギリスから呼ばれたリヴァプール・ファイブの演奏に接し、可能性をいち早く見出した加瀬が日本初のリバプールサウンド曲「ユア・ベイビー」を作っている。1966年には来日したザ・ビートルズの前座を務めるが直前に加瀬が脱退、さらに寺内もハードスケジュールがたたり過労で倒れ、療養のためにビートルズ来日を前に脱退することになった。このときは安達勝が参加して急場を凌いだが、それ以降第1次ブルージーンズは、度重なるメンバーチェンジの末に元ロカビリー歌手の田川譲二をリーダーにしたムード歌謡寄りのGSに転身、1969年に第2次ブルージーンズを結成した寺内に「ブルージーンズ」の名を返上するに至った。
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