第1期ブルージーンズ結成
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「寺内タケシ」の記事における「第1期ブルージーンズ結成」の解説
1962年の結成当時はロカビリー色の強かったブルージーンズだが、1963年1月のステージ転落事故を機にエレキバンド化を決意、メンバーを入れ替えた。この頃、ロカビリー出身の内田裕也や、ザ・スパイダースのセカンドギターだった加瀬邦彦が加入。 1965年、日本公演中のベンチャーズと共演した寺内タケシは、容易にチョーキングを繰り出すノーキー・エドワーズを不思議に思い、リハーサル時に中座した隙を狙って彼のモズライトを弾いてみたところ、弦が細いことに驚愕し「こんなに弦が細ければグリス(当時はチョーキングをこう呼んでいた)が楽に出来る訳だ」「指立て伏せしたりして必死になって握力を鍛えていた俺は何だったんだ」と語っている。ちなみに、この細い弦は、ノーキー・エドワーズが発案したとされるライトゲージ弦「スリンキー(アーニー・ボール社へ制作依頼)」である。1966年、日本公演中のベンチャーズのドン・ウイルソンが、息子の落馬死亡事故で帰国したため、寺内が代役でリズム・ギターを務めた。 ヤマハから寺内のオリジナルモデルSG7(通称ブルージーンズ・カスタム)が発売された。ただし最初は寺内の許可が無く、ブルージーンズの名を冠していない。この頃から「津軽じょんから節」に代表される民謡にも取り組み、エレキギターで民謡を演奏する「エレキ民謡」に取り組んだ。植木等の「遺憾に存じます」のバックバンドを務め、1965年のNHK紅白歌合戦に出場しているほか、加山雄三主演映画『海の若大将』、『エレキの若大将』(東宝映画)にも出演。1966年、結核性リンパ腺炎で入院したが、後に誤診と判明し、実際は過労であったという。
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