竜王信玄堤の築造と武田氏
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甲斐国守護である武田氏は盆地東部を拠点としていたが、戦国時代に国内統一を果たした武田信虎期は甲府(甲府市)に居館を移し武田城下町の整備を行う。天文11年(1542年)6月に信虎を追放し国主となった晴信期の初期には信濃侵攻を本格化している。川除工事の開始時期は不明であるが、『明治以前日本土木史』では信濃侵攻と平行して天文11年に堤防築造が着工したとされている。一方で、川除場で行われる夏御幸の開始時期が弘治年間(1555年 - 1558年)であることから、弘治年間までには着工されていたとする説もある。 『国志』に拠れば、はじめ植林などを行われていたが、御勅使川と釜無川との合流地点である竜王の高岩(竜王鼻)に堤防を築いて御勅使川の流路を北へ移し、釜無川流路を南に制御が試みられたという。信玄堤に関する最古の文書は永禄3年(1560年)8月2日付の武田信玄印判状(『保坂家文書』)とされる。同文書では「竜王の川除」に居住した際に家ごとの棟別役が免除されることを記しており、「竜王の川除」は信玄堤・竜王河原宿を指しており、同文書が発給された永禄3年以前には堤防の築造が行われていたと考えられている。同文書には宛名がなく、武田氏は広く竜王河原宿への移住を呼びかけていたと見られている。 於龍王之川除 作家令居住者 棟別役一切可 免許者也 仍如件 永禄三庚申八月二日 — 武田家朱印状(「保坂家文書」) また、竜王河原宿に所在する史料として輿石家屋敷前の側溝に架けられていた旧竜王河原宿石橋の銘文がある。この石橋の部材は永禄4年(1561年)の年記を有し、永禄4年に「市之丞」が架けたもので、跡部市朗右衛門が側溝を設けた際に出入口に利用されたという。慶長8年(1603年)の竜王村検地帳には「市之丞」の存在が記され、輿石家の先祖にあたる人物であると考えられている。 永禄四歳 市之丞掛替 石跡市朗石エ門黒入 巾八尺長九間出 這入口石橋掛替之 — 旧龍王河原宿石橋 堤防築造と御勅使川治水により洪水被害は緩和され、盆地西部や竜王では江戸時代初期に用水路が開削され新田開発が進み、安定した生産力が確保されたと考えられている。 天正年間には、年未詳6月29日付武田氏朱印状(「保坂家文書」)によれば、決壊した信玄堤に対応する普請として釜無川下流域を指す「水下」の郷村に居住する御家人・御印判衆が中心となり人夫を動員すること指示されている。なお、内容の解釈に対しては宛名が「水下之郷」となっていることから、武田家が御家人・御印判衆を通して堤防工事を実施したのではなく、水害による被害を受ける釜無川流域の郷村が、村内に居住する御家人・御印判衆を堤防工事に動員することを願い出て許可され、村が中心となり治水工事が行われたとする説もある。 この朱印状は今福昌常(和泉守)が奉者を務めた奉書式朱印状で、寸法は縦32.6センチメートル・横45.3センチメートル。武田勝頼の用いた獅子朱印が捺印されている。年代は天正元年(1573年)説・天正4年(1576年)説があるが、平山優は獅子朱印は勝頼が天正5年(1577年)以降に使用したⅡ型であることや、今福昌常が「和泉守」の官途名を使用するのは武田家中において家臣が一斉に官途名・受領名を変更した天正8年(1580年)1月以降であること、さらに今福昌常が奉者を務めた奉書式朱印状は天正9年(1581年)に限定されることから、この朱印状の年代を天正9年6月と推定している。 また、平山はこの朱印状で記される信玄堤の決壊に関して、『兼見卿記』同年5月20日条には京都における大雨・洪水が記録されていることや、『家忠日記』にも同様の水害が記録されていることから、天正9年には広範囲で大規模な大雨・洪水に見舞われていた状況を指摘している。
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