竜王信玄堤の絵図
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 21:10 UTC 版)
竜王信玄堤や将棋頭、石積出などの堤防の構造物を描いた絵図類は江戸時代から出現する。 1829年(文政12年)8月作成の「信玄堤絵図」(山梨県立博物館所蔵)は原図が1688年(貞享5年)6月に作成された写で、法量は縦79.1センチ・メートル、横263.6センチ・メートル。原図は1688年(貞享5年)に龍王村・竜王新町の名主・長百姓により作成され、1829年(文政12年)に富竹新田の保坂家により写が作成された。画面左右が南北となり釜無川・竜王信玄堤と竜王村の集落、用水路が俯瞰で描かれており、堤防や石積出、三社神社の存在が確認され、道は朱線で描かれている。「御本丸様書上」によれば1688年(貞享5年)に竜王村では甲府藩に対して戦国期以来の特権継続を願い出ており、本図は村の由緒を記した書上に添付された絵図であると考えられている。 1824年(文政7年)作成の「信玄堤絵図」(保坂家文書、甲斐市指定文化財)は富竹新田の保坂家により作成された絵図で、法量は縦41.1センチ・メートル、横108.6センチ・メートル。江戸後期段階の信玄堤の構造が描かれ、1688年に作成された図と比較すると竜王村の集落や用水路等が省略され、竜王信玄堤と水門や蛇籠のみが描かれ、純粋に信玄堤の構造のみを描く意図であったと考えられている。また、その図と比較すると廃止された取水口や新規に設置された水門の存在など構造の変遷が見られることから、往古の姿を記録する目的で作成されたものであると考えられている。 この他にも信玄堤を描いた絵図や村絵図なども存在している。
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