稲沢電灯時代
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事業規模が拡大するにつれ、稲沢電気のような配電専業の事業者では、購入電力料金の増加や自社変電所建設などの設備投資によって利益率が低下していく傾向にあった。そうした状況下で全国的に中小事業者の整理が活発化する中、隣接する一宮電気は1920年(大正9年)5月に名古屋電灯へと合併される。稲沢電気についても動きがあり、同年7月16日、「稲沢電機株式会社」が稲沢電気を吸収合併して「稲沢電灯株式会社」となった。合併相手の稲沢電機は1920年1月31日、資本金50万円で稲沢町大字稲沢字稲葉町902番地に設立(本店は稲沢電気合併と同時に字稲葉町1897番地へ移転)。名古屋電灯が稲沢電気に資本参加するために設立した会社と見られ、合併後の稲沢電灯は名古屋電灯(社長福澤桃介名義)が筆頭株主となった。合併後の資本金は100万円である。 新体制となった稲沢電灯では引き続き供給の拡充が図られ、1920年9月より従来の供給範囲に隣接する中島郡千代田村にて、次いで1923年(大正12年)6月より同郡長岡村にてそれぞれ配電を開始する。さらに供給量の拡大に伴って1923年9月に稲沢町字北山へ自社変電所を設置している。供給実績については、電灯についてみると1921年度に前年比で300灯減少した以外は1930年代まで一貫して増加し、1937年度に取付数が4万灯を突破した。一方電動機の利用は1930年前後の不況期に一時低迷するものの全体的には拡大傾向にあった。1938年11月時点における供給実績は電灯数4万1222灯、電力供給小口817馬力・大口830キロワット、電熱供給63キロワットであり、電源は名古屋電灯の後身東邦電力からの受電によった(受電電力1,750キロワット)。 このように1930年代まで順調な経営を続けた稲沢電灯であったが、日中戦争下で逓信省が推進した小規模配電事業の整理統合の影響を受け、電力の供給元である東邦電力へと統合されることになった。手続きの第一段階としてまず1939年(昭和14年)4月28日の株主総会にて稲沢電気設立以来社長を務めてきた山田祐一(山田市三郎を襲名)を含む地元の役員が辞任し、東邦電力常務市川春吉が新社長に就任する。さらに株式についても東邦電力やその傘下の東邦証券保有、東邦電力から稲沢電灯に派遣中の役員へと集められ、1939年5月に東邦証券保有が東邦電力と合併したことで全株式が東邦電力の所有となった。こうした準備を経て、1939年8月1日、稲沢電灯はすべての事業を東邦電力へと譲渡し、同日解散した。東邦電力では旧稲沢電灯社屋に一宮支店稲沢営業所を置き、引き続き旧稲沢電灯区域を所管させている。
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