私鉄における標準軌・改軌論争の影響
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「日本の改軌論争」の記事における「私鉄における標準軌・改軌論争の影響」の解説
電気鉄道の黎明期にあたる1899年、六郷橋 - 大師間に路面電車を開業させた大師電気鉄道→京浜電気鉄道(現:大師線)は、標準軌を採用した。国鉄の改軌が行われなかったことを尻目に、電気鉄道・路面電車・地下鉄の分野では1435mm軌間が急速に普及した。 また、1905年に大阪出入橋 - 神戸雲井通間を開業させた阪神電気鉄道本線は、高速インターアーバン(都市間の高速電気鉄道)を目指し、標準軌を採用した。ただし当時の私設鉄道法では標準軌の路線敷設は認められず、そのため路面電車に本来適用される軌道法を拡大解釈することで路線を建設した。軌道法の監督省庁である内務省が、電鉄事業に好意的であったことも幸いした。 その後、近畿を中心に軌道法による1435mmの高速電気鉄道が続々と開業した。 標準軌を採用した電気鉄道の中でも、特に近畿の私鉄では高速化の技術が急速に発展しており、戦前の高速運転を象徴する事例として、京阪電気鉄道新京阪線(現:阪急京都本線)のP-6形電車が、国鉄最高の特急列車「燕」を山崎付近で追い抜いた逸話が存在する。 近畿日本鉄道は、他の近畿私鉄と同様に開業時に標準軌を採用した大阪線・山田線等に対し、名古屋線が国鉄との貨車直通運転を前提として開業した伊勢電気鉄道を引き継ぐ形で発足して狭軌を採用していたため、名古屋から大阪・伊勢方面への直通運転ができなかった。その為、1960年の改軌実施に向け1957年から準備工事を開始した。その準備工事中に伊勢湾台風により名古屋線が壊滅的打撃を受け、当時の佐伯勇社長が路線復旧と同時に標準軌化を断行した(詳細は同社の歴史を参照)。 なお改軌論争は、関東の私鉄における東京市電の1372mmを採用した電鉄会社が、昭和中期に地下鉄との相互直通運転を行う際の対応で苦慮した所にも見られる。その中でも都営浅草線及び京浜急行電鉄への乗り入れを実施した京成電鉄は、当初は三線軌条や四線軌条とする案も上がったものの結局は改軌することになり、1959年に大規模な改軌工事を行って全線が1435mmに改軌された。また、同じく1372mmを採用した京王帝都電鉄→京王電鉄(帝都電鉄→小田急電鉄の路線を創始とし、狭軌を採用した井の頭線を除く)は、都営新宿線が建設される際に標準軌への改軌を都や運輸省から打診されたものの、当時の急激な沿線の発展による乗客の急増に対応するのに手一杯で実現に至らず、最終的に新宿線が京王線に軌間を合わせる形で建設されることとなった。
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