盗難と破損
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:34 UTC 版)
『モナ・リザ』の名声は、1911年8月21日にルーヴル美術館から盗まれたときにさらに上がった。盗難に遭ったのが発覚したのは翌日の8月22日で、フランス人画家ルイ・ベロー (en:Louis Béroud) が、『モナ・リザ』をスケッチするために、『モナ・リザ』が公開されているサロン・カレを訪れた。しかしながら、『モナ・リザ』が展示されているはずの場所には、額縁を固定する釘が残されているだけだった。ベローは警備責任者に連絡したが、この警備責任者は『モナ・リザ』は宣伝に使用する写真撮影のために移動させられているだけだと思い込んでしまった。数時間後、ベローが美術館の担当者に再度確認したところ、『モナ・リザ』には写真撮影の予定が入っていないことが分かり、『モナ・リザ』が盗難に遭ったことが発覚したのである。ルーヴル美術館は、捜査に協力するために一週間閉館となった。 ルーヴル美術館など「燃えてしまえ」と言い放ったことがあるフランス人詩人ギヨーム・アポリネールに盗難の容疑がかかり、アポリネールは逮捕、投獄された。このときアポリネールは友人だったパブロ・ピカソに助けを求めようとしたが、ピカソも事件への関与が疑われ、尋問のために警察へと連行された。証拠不十分で両者共に釈放されているが、後にアポリネールもピカソも全く事件とは無関係だったことが証明されている。 『モナ・リザ』の再発見については悲観的な見方が大半だったが、事件発生から2年後に、かつてルーヴル美術館に雇われたことがあるイタリア人ビンセンツォ・ペルージャが真犯人であることが判明した。ペルージャはルーヴル美術館の開館時間中に入館し、清掃用具入れの中に隠れていた。ルーヴル美術館の閉館後に隠れ場所を出て『モナ・リザ』を外し、コートの下に隠して逃走したのである。ペルージャはイタリア愛国者であり、イタリア人レオナルドの作品はイタリアの美術館に収蔵されるべきだと信じていたとされる。また、真作の『モナ・リザ』が失われれば複製画の価格が高騰すると持ちかけられたことも、動機となっているという説もある。ペルージャは2年間にわたって自身のアパートに『モナ・リザ』を隠していたが、フィレンツェのウフィツィ美術館館長に『モナ・リザ』を売却しようとして、逮捕された。イタリアに持ち込まれていた『モナ・リザ』は、そのままイタリア中で巡回展示された後、1913年にルーヴル美術館に返却された。ペルージャはイタリアで裁判にかけられたが、愛国者であると賞賛され、投獄されたのは6か月に過ぎなかった。 第二次世界大戦中には戦禍を避けて、ルーヴル美術館からアンボワーズ城、ロク・デュ修道院 (en:Loc-Dieu Abbey)、さらにシャンボール城へと移され、最終的にモントーバンのアングル美術館に収められた。1956年には観客から酸を浴びせられ、画面下部に大きな損傷を受けたことがあった。さらに同年12月30日に、ボリビア人青年が『モナ・リザ』に石を投げつけた。これによって画面左下部の顔料が僅かではあるが剥落し、修復されている。 損壊事件が相次いだことから、『モナ・リザ』は防弾ガラスのケースに収められた。1974年4月には、東京国立博物館に貸し出し展示されていた『モナ・リザ』が、美術館の身体障害者への対応に憤った「足の不自由な女性」に赤色のスプレー塗料を吹き付けられたが、『モナ・リザ』は無事だった。2009年8月2日には、フランス市民権取得を拒否されて度を失ったロシア人女性が、ルーヴル美術館の土産物屋で購入した素焼きのコップを投げつける、2022年にはパリ近郊に住む男性が女性高齢者に変装してクリーム菓子を投げつける行為が行われたが、いずれも2005年から設置されている防護用の強化ガラスが阻み『モナ・リザ』への影響はなかった。
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