異なるメディアとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:39 UTC 版)
「アラン・ムーア」の記事における「異なるメディアとの関係」の解説
ムーアの文章は詩的なナレーションと鋭い社会批評を組み合わせた「文学的」なものだとされ、作品は文学の観点から分析されることが多い(そのため、コミックという形式に固有の要素が見落とされがちだという指摘もある)。自身でもコミックの他作品より小説を基準にしていると語っている。キャリア初期に新しい感覚のスーパーヒーロー・コミックとして迎えられた『マーベルマン』は、詩人ブライアン・パッテン(英語版)が童心の喪失を詠んだ作品 "Where Are You Now, Batman?"(→どこに行ってしまったんだ、バットマン?)に感銘を受け、「コミックそのものにもっと詩心があればいいのに」と思ったのが着想元の一つだった。文学に限らず、コミックにほかのジャンル・形式・メディアを取り入れる傾向もある。『Vフォー・ヴェンデッタ』第2巻冒頭はミュージカル風に進行し、劇中歌の楽譜が添えられている。パラテクスト(英語版)を効果的に利用した作品もあり、コミックに併載された文章や地図、ポストカードなどが本編ストーリーと交錯する The Black Dossier はその代表である。 他方では、コミックに文学や映画のような周辺メディアから独立した価値を与えようという意識も強い。ムーアは近代コミックが映画から取り入れた技法によって成立していることを認めており、自身でも「ロングショット」「パン」のような映画用語で原作を書いている。しかしそれらの映画技法はあくまで「知らないよりはいい」ものでしかない。映画を基準にするならせいぜい動かない映画にしかなれないのであり、コミックというメディアにしか成しえないことを追求するべきなのだという。文学についても、それを目標にしても視野の広さ、深み、意義に欠ける小説になってしまうと書いている。ムーアは英国時代に、文学の基準に照らせば自身は特に優れた作家ではなく、コミックの最高の名匠であるウィル・アイズナーでさえ中堅作家と同レベルだと言ったことがある。 映画の流れるような視覚的ストーリーテリングと、思いを凝らしながら読む小説の読み方を両立させるのがムーアの一つの答だった。特に映画化不能を狙った作品だという『ウォッチメン』(1986年)では、背景や科白に隠された膨大なディテールに意味が込められており、読者は(映画のように時間に縛られることなく)ページを行きつ戻りつしながらそれらのつながりを読み取っていくことになる。また同作では、映画でいうクロスカッティングや文学でいう意識の流れに通じる非線形の時間表現が試みられている。ムーアはここで、異なる時空に属するコマが同時に目に入るコミックの特性を巧みに利用して、ほかのメディアよりも自然な感覚を作り出している。 後の2001年に書かれた『プロメテア』第12号は、小説家スザンナ・クラークによるとアラン・ムーアのコミックが小説や映画などには及びもつかないことをやってのけられると見事に証明している別の例である。同作は韻文、アナグラム、言葉遊びを駆使し、重層的な語りとヴィジュアルなイメージの絡み合いによってタロットの象徴と宇宙の歴史を解説する内容で、ひとつながりの巻物のような特異なレイアウトがなされていた。
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