田村家の時代とは? わかりやすく解説

田村家の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 08:12 UTC 版)

一関藩」の記事における「田村家の時代」の解説

延宝9年1681年3月陸奥岩沼より田村建顕(宗永)が移封され、5月2日5月3日とも)に入封したことにより、再び一関藩立藩した。 そもそも田村家三春現在の福島県田村郡)に根を張る戦国大名であったが、田村清顕時に愛姫陽徳院)を伊達政宗正室配することで蘆名家相馬家対抗した。しかし清顕が死去すると、田村家伊達派と相馬派に分裂して抗争し、やがて伊達家属した天正18年1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置において、政宗惣無事令違反の咎で蘆名領などを没収されたが、田村郡のみは舅の清顕の所領であったことを理由秀吉請う認められ伊達領として編入した。このため田村家改易となり、清顕の甥宗顕は旧領復帰のために政宗対立して蒲生氏郷頼り、さらに秀吉訴えようとしたがその中途病死し田村家断絶した愛姫実家断絶したことを嘆き政宗その間生まれた息子の忠宗にたびたび田村家再興懇請した愛姫は忠宗の三男で自らの孫である宗良を田村家後継望んだ愛姫承応2年1653年)に86歳で没したが、忠宗は同年にその遺言を容れて、宗良に田村家継承させた。宗良は名取郡岩沼藩3万石立藩し、伊達宗勝と共に伊達綱村後見役となっていたが、宗勝との叔父・甥の関係から確執、宗良の温厚な性格病弱、宗勝の才気煥発強引な性格により、伊達騒動では主導権を宗勝に握られていた。 建顕は宗良の子であり、外様大名ながら奥詰として将軍徳川綱吉側近として仕えた一関藩となった建顕は、松の廊下刃傷事件起こした赤穂藩浅野長矩預かり江戸上屋敷藩邸)内で切腹させたことでも知られる詳しく赤穂事件田村建顕など参照)。また田村通顕は、桜田門外の変でも水戸浪士のうち無傷だった森山繁之介を趣意書と共に預かったが、しばらくして足利藩戸田家移された。 明治元年1868年)の戊辰戦争では、仙台藩従い奥羽列藩同盟参加、後に仙台藩とともに明治政府降伏した戊辰戦争後明治2年1869年)、3千石削減の上藩主実弟田村崇顕家督相続許されたが、同年4月版籍奉還した。崇顕は一関藩知事任じられたものの、明治4年1871年)の廃藩置県によって一関藩廃され一関県置かれた。

※この「田村家の時代」の解説は、「一関藩」の解説の一部です。
「田村家の時代」を含む「一関藩」の記事については、「一関藩」の概要を参照ください。

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