田村家の時代
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延宝9年(1681年)3月に陸奥岩沼より田村建顕(宗永)が移封され、5月2日(5月3日とも)に入封したことにより、再び一関藩が立藩した。 そもそも田村家は三春(現在の福島県田村郡)に根を張る戦国大名であったが、田村清顕の時に娘愛姫(陽徳院)を伊達政宗の正室に配することで蘆名家や相馬家と対抗した。しかし清顕が死去すると、田村家は伊達派と相馬派に分裂して抗争し、やがて伊達家に属した。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置において、政宗は惣無事令違反の咎で蘆名領などを没収されたが、田村郡のみは舅の清顕の所領であったことを理由に秀吉に請うて認められ、伊達領として編入した。このため田村家は改易となり、清顕の甥宗顕は旧領復帰のために政宗と対立して蒲生氏郷を頼り、さらに秀吉に訴えようとしたがその中途で病死し、田村家は断絶した。 愛姫は実家が断絶したことを嘆き、政宗やその間に生まれた息子の忠宗にたびたび田村家の再興を懇請した。愛姫は忠宗の三男で自らの孫である宗良を田村家の後継に望んだ。愛姫は承応2年(1653年)に86歳で没したが、忠宗は同年にその遺言を容れて、宗良に田村家を継承させた。宗良は名取郡で岩沼藩3万石を立藩し、伊達宗勝と共に伊達綱村の後見役となっていたが、宗勝との叔父・甥の関係から確執、宗良の温厚な性格と病弱、宗勝の才気煥発と強引な性格により、伊達騒動では主導権を宗勝に握られていた。 建顕は宗良の子であり、外様大名ながら奥詰として将軍徳川綱吉の側近として仕えた。 一関藩主となった建顕は、松の廊下で刃傷事件を起こした赤穂藩主浅野長矩を預かり、江戸上屋敷(藩邸)内で切腹させたことでも知られる(詳しくは赤穂事件、田村建顕など参照)。また田村通顕は、桜田門外の変でも水戸浪士のうち無傷だった森山繁之介を趣意書と共に預かったが、しばらくして足利藩・戸田家へ移された。 明治元年(1868年)の戊辰戦争では、仙台藩に従い奥羽列藩同盟に参加、後に仙台藩とともに明治政府へ降伏した。戊辰戦争後の明治2年(1869年)、3千石の削減の上で藩主の実弟田村崇顕に家督相続を許されたが、同年4月に版籍奉還した。崇顕は一関藩知事に任じられたものの、明治4年(1871年)の廃藩置県によって一関藩は廃され、一関県が置かれた。
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